どんど焼きは日本の国民的行事、そして世界の共有文化遺産

    小正月行事「どんど焼き」の全国・国際調査集計(令和6年版)

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2024/3/6 更新
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【小正月行事「どんど焼き」全国・世界調査結果に基づく考察篇】

小正月行事「どんど焼き」は日本の国民的行事であるとともに世界的な新春の火祭り

 NPO地域資料デジタル化研究会の小正月行事どんど焼き(一部地域ではとんど焼き、左義長などとも)の全国調査によりますと、行事の背景には、旧暦、新暦(グレゴリオ暦)のほか「朔正月」「望正月」「立春正月」などさまざまな慣習が入り混じり、「小正月行事調査」の実施のうえで、対象を新暦1月15日の「小正月」に限定する意味がないことが判明しました。この知見に基づき、小正月行事調査の対象は「新年、新春を迎えるための行事」として広い視野で実施することといたしました。
 さらに、海外でも日本のどんど焼きと類似の火祭り行事が実施されていることが確認されたため、平成26年(2014年)から新たに調査範囲を世界規模に拡大しました。
 その調査結果によりますと、どんど焼きは、日本独自の行事ではなく、韓国、中国をはじめ、インドやイランなど中東、さらにはスウェーデン、英国、イタリアなど欧州など、ユーラシア大陸各地のほか世界的に行われていることが明らかになりました。これらの行事は、すべて新年、新春を迎えるための火祭り行事(春の夜のたき火の祭典)であることが共通しております。その結果は分析レポートとともに、このサイトに別表の一覧表としてまとめて公開いたしました。
 

 この国内外の調査結果は、世界の民俗文化の学習資料として非営利利用に限り無償で公開いたしております。関心のある方は、法令の規定により、出典を明記したうえで、自由に引用してください。出典は[NPO地域資料デジタル化研究会・小正月行事の全国・国際調査]としていただければ幸いです。出典を明記することで許諾も不要です。リンクもフリーです。

 商用利用を希望される場合は、このページ下部のコンタクトフォームからお問い合わせください。

==目次==
○小正月行事「どんど焼き」日本全国47都道府県とユーラシア大陸全域で実施を確認
○日本の「どんど焼き」の名称は全国共通 地域によって「左義長」「鬼火たき」など多彩
○全国の小正月火祭り行事の主な名称と都道府県別分布(関連行事の名称)
○小正月焚き火行事と「どんど焼き」名称の起源
○江戸中期には「とんど」と呼ばれ、後期に「どんど」へと変遷
〇東北地方の「どんと焼き」の発祥は仙台から、呼び名は新聞記事がきっかけ?
○なぜ、どんど焼きが「日本の国民的行事」なのか
○小正月行事とは何か
○正月行事の意味を形骸化させた明治の改暦
○大正月、小正月、立春正月は結局どれも同じ新年行事
○旧暦の正月行事に込められていた迎春の喜び
○政府の都合で迎春の祝祭行事を失った日本人
○本来のどんど焼きは「新春の満月の夜の火祭り」だった
○調査で判明した小正月行事に込められた7つの開催趣旨
○持続可能な発展へ 小正月行事は、世界に誇る日本人の智慧
○日本のどんど焼きは歳神様の送り火
○どんど焼きは「集落の持続的な発展を祈る」祭り 震災復興の祈願も
○国連「持続可能な開発のための2030アジェンダ」は、日本のどんど焼きを祝福する
○どんど焼きに先立ち、全国で子どもたちが招福の家庭訪問 
○繭玉だんご焼きは、どんど焼きの楽しみ
○「どんど焼き」と書き初め燃やし
○小正月の飾り柱 長野・山梨に共通文化圏
○小正月行事「どんど焼き」は日本・韓国・スウェーデン共通の国際的民衆行事
○GOOGLE画像検索による世界の「どんど焼き」の相似と共時性
○日本の仮装来訪神行事「ナマハゲ・アマハゲ」と欧州の「クランプス」、インドネシアの「オゴオゴ」などなど相似の国際的民衆行事
○小正月行事の火祭り「タルジプ焼き」は韓国の国民的行事 1年の健康と豊作を祈る満月の火祭り
○「日韓」と「中国」の小正月行事の違い
○欧州各地で迎春の火祭り行事 1年の豊穣と悪霊払いを大きな焚き火に祈る
○小正月のこども訪問神と、ドイツ「天の花嫁」は相似行事
○どんど焼きの「梵天」、韓国のビョッカリッテ、北欧のメイポールの相似
○日本と韓国など東アジア5カ国では、正月の農耕儀礼として綱引きを行う
○山梨県の旧盆どんど焼きと韓国の秋夕
○日本と欧州の訪問神は顔に墨を塗る
○日本の来訪神と欧州の“来訪神”の類似に関する調査結果について
○「カセイドリ」藁の精霊に化身した“訪問神” 欧州に類似行事
○日本のどんど焼き、韓国のタルジプ焼きの淵源は古代ペルシャの拝火行事?!
〇「謎の3周」人々はなぜか焚き火の周りを3回まわる
○どんど焼き「三毬杖(さぎちょう)起源説」は疑問が多い
○全国・国際調査結果から判明した「三毬杖起源説」への3つの疑問
○では、どんど焼きの起源は何なのか? 
○国家権力に抵抗するため「どんど焼き」を「左義長」とすり替えた可能性
○「どんど焼き」は世界的視野での研究段階へ
○「One Prayer One world 」世界は一つの祈りでつながっている
○小正月行事、どんど焼きは経済効果の大きい地域振興イベント 長野五輪で世界の話題に
○日本一古い小正月の火祭りは、福岡県久留米市の「鬼夜」
○日本一高いどんど焼きやぐらは、宮崎県西臼杵郡五ヶ瀬町大字鞍岡
○日本一大きいどんど焼きやぐらは徳島県美馬市美馬町
○日本一のとんど祭屋台は大阪高津宮
○日本一大きいどんど焼き小屋は新潟県十日町市のバイトウ
○世界最大規模の新春火祭り(どんど焼き)は、奈良の若草山焼き
○どんど焼きの意義を議会の場で質疑 愛媛県八幡浜市
○学習指導要領・郷土学習としての「小正月行事・どんど焼き」の教材化
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○小正月行事「どんど焼き」日本全国47都道府県とユーラシア大陸全域で実施を確認

 地域資料デジタル化研究会が行った、新聞、放送局などのWEB版記事に出現した小正月の火祭り行事(どんど焼きなど)の実施状況は、平成26年までの調査により、最北端が北海道、最南端が沖縄県まで、日本全国の47都道府県で行われていることが明らかになりました。全都道府県を対象に小正月の火祭り行事の実態調査が実施され、集落を単位として全容が一覧されたのは、デジ研の調べた限りでは本調査結果が国内で初めてであります。
 さらに2014(平成26)年調査により、ユーラシア大陸の各地で日本のどんど焼きと類似した新年、新春を祝う火祭り行事が実施されていることが明らかになりました。この世界調査結果の考察は別項にて詳述いたします。

 日本の「どんど焼き」の実施時期は全国共通で、ほぼ1月14日から15日にかけて、小正月行事として実施されています。九州では七日正月として、6日ないし7日のところもありました。(※ 取り急ぎ行事の実施内容を知りたい方は、このページ下記項目の「調査結果一覧表」を参照してください。)

 本調査では、以上の結果から、「どんど焼き」は小正月行事の火祭りとして「日本の国民的行事」であると同時に「ユーラシア大陸共通の新春を迎えるための民俗文化行事」と判定します。

 どんど焼きの最近の傾向を分析しますと、かつて小正月の1月15日が成人の日として休日であったため、休日前の14日夜に小正月行事として行うところが多かったのですが、平成12年以降は、成人の日が1月の第2月曜日に移され、“ハッピーマンデー”として連休とされるようになったため、どんど焼きは、小正月にこだわることなく、住民が参加しやすいように「新成人の日」の前の休日に行われるようになった地域が多く、実施日は各地でばらけてきています。
 さらに秋田県、宮崎県など一部地域では、旧暦本来の小正月行事の伝統を守り、旧暦1月15日満月のころ(新暦では2月以降になる)に、小正月行事を祝う地域があります。これは、韓国の旧暦小正月行事テボルムや中国の元宵節(春節の締めくくり)などと同じ日程となるものです。

○日本の「どんど焼き」の名称は全国共通 地域によって「左義長」「鬼火たき」など多彩

 調査結果によると、小正月に行われる火祭り行事の名称は、北海道から沖縄まで、ほぼ全国共通で「どんど焼き」と呼ばれていました。しかし、地域によっては、関西、中国で「とんど焼き」、京都・滋賀・岐阜、愛知、北陸周辺で「左義長」、東北では「どんと焼き」、長野・山梨・群馬・埼玉・神奈川では「道祖神祭」、九州では「鬼火焚き」、「ほんけんぎょう」などとも呼ばれています。長野県松本で「三九郎」、静岡県では「さいと焼き」という地域もあります。全国では30種以上の呼び名がありました。(一覧表参照)

 その詳細は、小正月に関連する集落行事の事例が560件ありました(平成15~31年までの集計分)。そのなかで小正月の火祭行事の呼び名として確認できた事例は、全国で221件です。確認された呼び名の上位は、件数順に次のとおりです。その中で、「どんど焼き」が107件(48.4%)と半数近くを占め、最も多い結果となりました。(※調査集計数はその後も毎年増加中です。上記の数字は平成31年時点のものです)

【小正月火祭り行事 主な上位名称と全国分布】(平成15~31年までの集計分)
(1)「どんど焼き」 107件(48.4%)=北海道、青森、秋田、山形、福島、茨城、栃木、群馬、埼玉、千葉、東京、神奈川、新潟、長野、山梨、静岡、福井、愛知、岐阜、三重、滋賀、京都、和歌山、山口、徳島、香川、愛媛、高知、福岡、大分、宮崎、鹿児島、沖縄
(2)「とんど焼き」 20件(9.0%)=東京、滋賀、京都、大阪、大阪、兵庫、奈良、鳥取、島根、岡山、広島、香川
(3)「左義長」 18件(8.1%)=神奈川、富山、石川、福井、愛知、岐阜、滋賀、京都、徳島
(4)「道祖神祭」 17件(7.7%)=群馬、埼玉、神奈川、長野、山梨
(5)「どんと焼き」 11件(5.0%)=岩手、秋田、宮城、京都、長崎
(6)「サイノカミ(サエノカミ)」 7件(3.2%)=秋田、新潟、東京、福島
(7)「鬼火たき」 6件(2.7%)=佐賀、熊本、鹿児島
(8)「どんどん焼き」 5件(2.3%)=群馬、神奈川、長野、山梨、静岡


 その他の全国の小正月火祭り行事の名称は、その後の調査で確認できた分も含め、次のとおりです。(出現件数として各1~2件)
 梵天祭、どんどや、道陸神(どうろくじん)、ほんげんぎょう、御塞神祭(おさいじんさい)、焼納祭、ダイナマイトカーニバル、お焚き上げ、御幣(おんべ)焼き、おんべ祭り、三九郎、かあがり、ホンダレ、ホンデ焼き、ホンヤリ、かんがり、かんがりや、天筆焼き、松焚き祭、ワーホイ、やははいろ、蘇民祭、鳥小屋、火伏せ祭り、あわんとり、さいと焼き、グロ、おんづろこんづろ、オビシャ、とうど送り、オンノホネ、おんじゃおんじゃ、ドヤドヤサー、おねっこ、お火たき、かくしほちょじ、吉兆さん、ヘトマト、じゃない、鬼夜、鬼会、鬼すべ、鬼ばしり、歳頂火(せとき)、おねび焼き、虫焼き、厄除けかがり火、おたいまつ

 以上の調査結果により、日本の小正月火祭り行事について、報道機関、公共機関等の電子WEB版での記事取り扱い量は、東日本で多く、特に東北・甲信越地方では掲載量が多く、地域住民の関心も高いことがわかります。
 また、伝統的な小正月行事では火祭りが単独で行われるのではなく、火祭りに先立って、全国各地で「この一年の福」を地域の家々に招き寄せる「門付け」、災害疫病を追い払う「厄払い」、子孫繁栄のための「子宝祈願」、養蚕大当たりを招き寄せる「繭玉団子づくり」など様々な関連する行事が行われています。一連の関連行事は中学生以下の子どもたちが「神の使い」となって行われているのも全国的に共通しています。一方で、少子高齢化の社会傾向により、地域の大人だけで行事を守っている事例も目立っています。

   各都道府県ごとの小正月火祭り行事と関連行事の名称は以下にまとめました。このデータは、20年間にわたる本調査により初めて全国公開された貴重なものですので、ご活用ください。さらに市町村別、集落別の詳細内容は当調査の地域別集計一覧表を参照してください。

○全国の小正月火祭り行事の主な名称と都道府県別分布~新聞、放送報道機関WEB版などで出現した行事名の例(及び火祭りに関連する行事の名称:令和5年時点)

(※火祭りならびに関連行事内容の詳細は、別表の調査結果一覧表を御覧ください)

【北海道地方】
 ◎北海道 どんど焼き
【東北地方】
 ◎青森県 焼納祭、どんと焼き、どんど焼き、《関連行事:ろうそく祭り、えんぶり、田植え餅つき踊り、ミズキ団子作り、柳からみ、おこもり、けの汁、ほがほが、お庭田植え》
 ◎岩手県 どんと焼き、どんど焼き、火たきのぼり、柴燈木(ひたき)登り、サイトギ《関連行事:農はだて、きんこならし、えんぶり、おしらさま、ミズキ団子、スネカ、ナモミ、カラスの小正月、成木責(なるきぜ)め、裸参り、獅子舞、蘇民祭、蘇民袋の争奪戦、ねずみっこ、女正月、繭玉ならし、雪中田植え、カラスよばり、するめっこ釣り、かせどり、作様(さくだめし)、かせ踊り、献膳行列、延年の舞、人形送り》
 ◎宮城県 どんと祭、松焚き祭、柳沢の焼け八幡、切込の裸カセドリ、暁祭り、《関連行事:裸まいり、小村崎春駒、百貫しめ縄、チャセゴ、チャセンコ、えんずのわり、ささよ、だんご刺し、けの汁、米川の水かぶり、アンバサン、もち花づくり、鮪立大漁唄込(しびたちたいりょううたいこみ)、浪板虎舞(なみいたとらまい)、春祈祷》
 ◎秋田県 梵天祭、どんと焼き、天筆焼き、タイマツ焼き、火振りかまくら、サエの神の小屋焼き、火祭りかまくら、大どんと焼き、どんど焼き、虫焼き、かまくらやき《関連行事:人形道祖神、ショウキサマ、カシマサマ、やまはげ、なまはげ、アマノハギ、雪中田植え、ワタワタ、嫁つつき、鳥追い小屋、鳥追いの歌、梵天奉納、竹うち、なまはげ柴灯(せど)まつり、犬っこまつり、アメッコ市、上桧木内の紙風船上、川を渡る梵天、鳥子舞、掛魚(かけよ)まつり、大綱引き、綱よい、みかんまき、ずんだ、カンデッコあげ、きゃのっこ汁、かまくらサウナ》
 ◎山形県 どんど焼き、さいと焼き、ホンデ焼き、ヤハハイロ(ヤハハエロ)、お柴灯(おさいど)まつり、御塞神祭(おさいじんさい)サエズ(サイズ、サエジ)焼き《関連行事:アマハゲ、加勢鳥(カセドリ)、カマクラ、なし団子、団子さげ、さんげさんげ、地蔵ころがし、わらじころがし、わらじみこし、だんご木、やや祭り、ゆきんこ祭り、病(やんまい)送り、塞(さい)の神とデグ様、山の神様おんび、厄よけ豆まき行事》
 ◎福島県 どんど焼き、歳の神、サイノカミ、鳥小屋、火伏せ祭り《関連行事:団子さし、だんご市、切り紙・網飾り、七福神舞、泥かけまつり、へびの御年始、うそかえ祭》
【関東地方】
 ◎茨城県 どんど焼き、ワーホイ、あわんとり、あわの酉、浜の炊きあげ祭《関連行事:はねつき・破魔弓神事、ならせモチ、繭玉だんご、木綿玉だんご、鳥追い、三木長》
 ◎栃木県 どんど焼き、春渡祭《関連行事:繭玉団子、とんぼ団子、日の出祭り、御筒粥》
 ◎群馬県 道祖神祭り、どんどん焼き、どんど焼き、おたきあげ《関連行事:繭玉飾り、鳥追い祭り、福の神、削り花、春駒まつり》
 ◎埼玉県 どんど焼き、道祖神祭り《関連行事:削り花、クダゲエ、繭玉だんご、回り念仏、ドウロク神焼き》
 ◎千葉県 どんど焼き、あわんとり、どんどっぴ(火)《関連行事:里芋祭り、オビシャ》
 ◎東京都 どんど焼き、とんど焼き、塞の神行事、焼納祭、ドウロクジン《関連行事:繭玉団子飾り》
 ◎神奈川県 道祖神祭、どんど焼き、セエノカミサン、左義長《関連行事:チャッキラコ、オンベ竹、まゆ玉飾り、石売り、ヤンナゴッコ綱引き、ナナトコマイリ、オカリコ、トッケダンゴ》  

  【甲信越地方】
 ◎新潟県 どんど焼き、サイノカミ、ダイナマイトカーニバル《関連行事:まゆ玉飾り、バイトウ、青海の竹のからかい、嫁祝い、婿いぶし、むこ投げ・すみ塗り、鳥追い、おーまら、ほんやら洞、旗振り、馬、新潟春節祭、節季市(チンコロ市)、和ろうそく奉納》
 ◎長野県 道祖神祭、三九郎、どんど焼き、道陸神祭り、おんべ祭り、せいの神、ホンヤリ、どうろくじん祭り《関連行事:おんべきり、福俵曳(び)き、おかたぶち、かんがりや、かあがり、道祖神の御年始、ほんだれ様、七草だるままつり、ほっぽんや、でえもんじ、鳥追い、悪魔払い(あくまっぱらい)、炭売り、きんちゃく落とし、筒粥(つつがゆ)、かさんぼこ、成木責め、道祖神家祝い、ジジババ道祖神、お日待ち、厄除け篝火、早稲田人形神送り、小正月飾り》  
 ◎山梨県 どんど焼き、どんどん焼き、道祖神祭《関連行事:田野の十二神楽、藤木の太鼓乗り、一之瀬高橋の春駒、七福神のねりこみ、氏子めぐり、悪魔払い(あくまっぱらい)、獅子舞、稲穂(いねぼう)さん、繭玉だんご作り、木勧進(きっかんじょう、きっかんじ)、どんやっせ、オブネ、福亀、おかたぶち、ヒイチ、御神木立て、御幣渡し、だんごばら、梵天竿(ぼんてんざお)、おやま飾り、おやなぎさん、おこんぶくろ、俵転がし、お松引き、ご祝い申そう、さるぼこ、おほんだれ、お日待ち、お神立て》

【北陸地方】  ◎富山県 左義長、おんづろこんづろ、塞の神《関連行事:初午(はつうま)、木偶(でく)さま、サイノカミの唄》
 ◎石川県 左義長《関連行事:柿の木いため、どんど》
 ◎福井県 左義長、どんど焼き、おしたきどんど《関連行事:左義長ばやし・左義長太鼓、三町芸(左義長芸)、ヒウチ、色短冊、ごぼう講、粟田部の蓬莱祀(おらいし)、戸祝いとキツネガリ、大寒願掛け、成り木責め、十日えびす祭り、敦賀西町の綱引き、まゆ玉飾り、作り物(作り初め、もの作り)、六日講・二十日講、数珠繰り、合葉の祭り、舟祝い歌「いざき」、日向の水中綱引き》 

  【東海地方】  ◎静岡県 どんど焼き、さいと焼き、どんどん焼き、御幣(おんべ)焼き、道祖神焼き《関連行事:お日待ち、まゆ玉、おんべら、お宝の木、おんべ玉、おんべ竹、削り花、ヤマ、ダシ、ヤナギ、ハナ、田遊び、にゅうぎ(新木)、鵺ばらい祭》
 ◎愛知県 左義長、どんど焼き、開扉祭(おみとまつり)《関連行事:はだか祭、どぶろくまつり、豊年祭》
 ◎岐阜県 左義長、どんど焼き《関連行事:谷汲踊(豊年祈願祭)、なんまいだ》
【近畿地方】
 ◎三重県 どんど焼き、「年越しのどんど火」《関連行事:ヤーヤ祭、ノット正月、御火試(おひだめし)、粥試(かゆだめし)、かんこ踊り》
 ◎滋賀県 左義長、とんど焼き、鬼ばしり、勝部の火まつり、松明祭《関連行事:鬼ばしり、火のぼり、ダシ》
 ◎京都府 左義長、どんど焼き、トンド焼き、どんと焼き、古神札・しめ縄焼納祭、火炉祭(かろさい)、鎮火祭《関連行事:小豆粥、七福神巡り、五大力尊法要、餅上げ力奉納、綱引き神事、コト、三鬼打ち神事、盃(カワラケ)割り神事、立春祭》   
 ◎大阪府 トンド祭、トンド焼、干支とんど、焼納祭《関連行事:小豆がゆ、きつねがえり》 
 ◎兵庫県 トンド焼き、どんど焼き、法成就講(ほうじょうじゅこう)、かくしほちょじ(ほちょじ焼き)、曳きとんど、サイノカミ《関連行事:賽(さい)の神、サエノカミ、蛇(じゃ)ない、大わらじと草履奉納、歳の当、おとう、とうの親、狐追い(キツネガリ)、鬼追い式、田遊び・鬼会、鬼踊り、鬼追い修正会(しゅしょうえ》 
 ◎奈良県 トンド焼き、大とんど、鬼はしり、お松明(たいまつ)《関連行事:若草山焼き、弓祝式、山の神まつり、修二会お水取り》  
 ◎和歌山県 古神札焼納祭、お焚き上げ祭、どんど焼き、さぎっちょ、御燈祭り《関連行事:小豆粥占い、さぎっちょの歌、御田祭、上り子(のぼりこ)》

【中国地方】
 ◎鳥取県 トンド焼き、トンドウ、霞のドンドさん《関連行事:コリトリ、七草がゆと鳥追い、ホトホト、管粥(くだがゆ)》 
 ◎島根県 トンド焼き、五十猛(いそだけ)のグロ、仮屋(かりや)行事とんど、《関連行事:吉兆さん、しゃぎり太鼓、おおもっつぁん、墨付けとんど、トンド切り、仮屋づくり、とろへい》
 ◎岡山県 どんど祭、とんど祭り 
 ◎広島県 トンド祭り《関連行事:トラヘイ》
 ◎山口県 どんど焼き、とんど祭り、神明祭《関連行事:盗餅(とへ)、ワラ馬、地福のトイトイ》

  【四国地方】
 ◎徳島県 日本一のどんど焼き、左義長《関連行事:吉書投げ入れ、ぼたもち大将》
 ◎香川県 とんど焼き、どんど焼き、とうどうばやし・とうどばやし《関連行事:書初め焼き》
 ◎愛媛県 どんど焼き、とんどさん、とうどおくり、お注連(しめ)焼き、鎮火祭《関連行事:大根だき》
 ◎高知県 どんど焼き《関連行事:かいつり》

  【九州地方】
 ◎福岡県  どんど焼き、ほっけんぎょう・ほんげんぎょう、鬼夜(おによ)、鬼すべ、さぎっちょ祭り《関連行事:かゆ開き、十日恵美須(とおかえびす)祭、春日の婿押し (婿押し祭り)、嫁ごの尻たたき、井手浦の尻振り祭、おこもり小屋、トビトビ、臼かぶり、宝恵かご道中、かち詣り、鷽替え》 
 ◎佐賀県 鬼火焚き、ほんげんぎょう、おんじゃおんじゃ、お火たき
 ◎長崎県 どんと焼き、オンノホネ、どんどファイアーフェスティバル《関連行事:ヘトマト、長崎ランタンフェスティバル》
 ◎熊本県 どんどや、鬼火たき、どんど祭り、おねび焼き、火振り神事《関連行事:かせいどり打ち、しゅんなめじょ、もぐら打ち、シシクイ祭り、裸まつり》
 ◎大分県 どんど焼き、鷹栖観音鬼会(たかすかんのんおにえ)《関連行事:福俵引き》 
 ◎宮崎県 どんど焼き、おねっこ、鬼の目はしらかし、歳頂火(せとき)《関連行事:柳もち、カセダウイ、かせだ売り、もぐらたたき、猪々掛祭、餅勧進(もっかんじん)、ななとこさん》
 ◎鹿児島県 鬼火たき、おねっこ、どんど焼き、ドヤドヤサー《関連行事:メノモチ、麦ほめ、かせだうち、ダセチッ、破魔投げ、サンコンメ、イシナト、ハマテゴ、もちひっぱれ、もぐらうち、蚕舞(カーゴマー)、ナリムチ、祝い申そう、武射祭、鈴かけ馬踊り》
 ◎沖縄県 ドンド焼き、古神札焚上祭(こしんさつたきあげさい)《関連行事:旧正月大綱引き、ナリムチ(餅花)、グソー(あの世)の正月、旧十六日正月祭(ジュールクニチー)、シャクトゥイ、パーントゥ、クイチャー、旧二十日正月祭(パツカショウガツ)、サティバロウ(里払い)、マースヤー、村うくし、親田(うぇーだ)御願》

世界のどんど焼き調査結果一覧表はこちらをクリック

○小正月焚き火行事と「どんど焼き」名称の起源

 江戸時代の古書によれば、日本の小正月の焚き火行事の行事の起源については、「唐土(とうど、中国のこと)の正月に爆竹で邪気を払う行事」が日本に伝来したものと考えられていました。江戸時代初めのころは、焚き火が燃え上がると、唐土に由来すると思われる「とんどや、おほん」、「とんどや、はあ」というはやし言葉が使われ、はじめのうちは行事の呼び名として「爆竹」「とんど」と言われていました。ほかに、宮中の三毬杖・吉書焼き行事との連想で“尊称”として「さぎちょう」と呼ばれていたことが記されています。
 江戸時代後期には、青竹のはぜるドンという爆音からの連想もあり、「とんど」が音便変化して「どんど焼き」という呼び名が一般的になっていったようです。以下に詳しく歴史的な変遷を考察してみましょう。

 正月の焚き火行事の起源について、角川俳句大歳事記に江戸時代に編纂された歳事記などから詳しい考証が記載されています。それによると、日本の小正月行事について学術的な観点から、詳しく述べているのは、江戸前期に日本で初めての本格的な百科事典として編集された「日本歳事記」(貞享5、1688年)ではないかと思われます。
 同書には正月15日の記事として、以下のように述べられています。

  「今暁、門松・注連縄等を、俗に随ひて焼くべし。ただし、家近きところにて焼けば、火災の憂へあり。爆竹の火より回禄{中国の火の神の名、火災}出で来たること、近年も多し。しかれば、家近き所、または宅狭くは竈の下に焼くべし。風静かなる夜は、門外に焼くもまた可なり。爆竹とは、竹を焚きてはしらしむることなり)わが国に今日爆竹すること定説なし。いつのころより始まりしことにや。唐土(もろこし)には、元日庭前に爆竹すれば、山臊(そう)悪鬼を避くるといふこと、歳時記に見えたり。(中略)日本のさぎちやうは、僧家に言ひ伝ふるは(中略)西域仏法の義まさりて東土へ流布するといふことなりともいへり。これは沙門の書き置けることなれば、わが道を誉めたるなるべし。(林羅山の説なり)しかれば右の説はよりどころとするにたらず。また陰陽説の説には巨旦(こたん)将来を調伏の威儀なりとて、三笈杖(さぎちやう)焼きの斎会は三毒退治のことわりなるよし。清明が簠{たけかんむりに甫+皿}簋{たけかんむりに良+皿}内伝に見えはべれど、これまた妄誕の説なれば、あに信ずるにたらんや。ただ唐土(もろこし)にて除夜・元旦などに爆竹することあるをまなびて、わが国には今日するならし。春の始めなれば、一年の邪気を払い散らせる意なるべし。呉の俗、十二月廿五日爆竹するよし、苑至能の説に見えはべれば、あながち除夜・元日のみすることにてもあらざるべし。およそ爆竹の声は、陰気の鬱滞せるを発散し、邪気を驚かしむるとなり」
とあります。

 以上の江戸前期に編集された日本歳時記によると、小正月の焚き火行事は、門松やしめ飾りを焼くために家々で行われていました。その際、青竹を燃やして「爆竹」と呼び、その起源については「定説なし」としながらも、編者の考察として、唐土(中国)で行われている除夜、元旦の爆竹の風習が、わが国に伝わり、一年の邪気を払う行事となったのではないか、としています。
   「爆竹」以外にも「さぎちょう(左義長)」の呼び名が流布していることに触れ、その語源について、二説を紹介しています。一つには、「仏教の僧侶が言い伝えた言葉で、西方の優れた(長じた)仏法の義が東方へ流布したことを、(自画自賛で)誉めたものであるので、よりどころとするには足りない」と切り捨てています。
 二つ目には、平安時代に宮中で行われた三笈杖(さぎじょう)焼きの三毒退治の斎会を語源とする説を紹介し、陰陽師・安倍晴明の説として、さぎちょうと蘇民将来伝説の結びつきを紹介しながら、これも根拠がないと切り捨てています。
 蘇民将来伝説は、古代に旅に出た武塔神(すさのお尊)が宿を請うたところ,富裕な弟の巨旦(こたん)将来はことわったが,貧しい兄の蘇民将来は歓待したため,茅の輪(ちのわ)の護符を腰につけるように教えられ疾病を免れたという説話で、神社における夏越の祓の起源とされています。蘇民将来伝説に基づく小正月行事は、現在も東北地方で行われています。

   一方で、町方で行われる正月の焚き火行事が「さぎちょう」として文献に現れるのは江戸時代前期で、「花火草」(寛永13、1636年)などが初出とされています。
 さらに行事の内容については、江戸前期の俳書「山の井」(正保5、1648年、俳人北村季吟編纂)に、
「上古は、打ちし毬打(ぎちょう)を神泉苑にて焼き上げ、法成就の池にこそとはやしつるよしなれど、今町方のならはしは、三か日飾りし家内の楪葉も歯朶も門に立てたる松竹も、一つに集めてかのなりに作り、帯・扇など結びつけて風流をなし、十五日の朝暁、大道に立ててほこらかして、<とんどや、おほん>とはやし、吉書をもあげはべる。されば、日の本や唐土とはやすとも、あげまきやとどむとはやすなど、言ひ続けはべる。また、さぎちやうを鷺にもそへて、古く言ひなせり」とあります。

 「山の井」にいう「ほこらかす」という用語は「竹などを爆(は)ぜさせながら、音を響かせて燃やす」という意味、つまり爆竹を指して使われています。江戸前期の江戸の町の風俗として、小正月の早朝に正月飾りを集めて、大道に立てて青竹などが爆ぜながら燃やされた様子がうかがえます。
 この焚き火の炎があがると、人々は「とんどや、おほん」と囃し立て、さらに年初の書初めである吉書を焼き、灰を空高く舞わせた様子がうかがえます。現代のどんど焼きで子どもたちが書き初めを焚き上げる風習は江戸時代前期には定着していたようです。「とんど」とは「唐土(中国)」を指しているものと示唆されています。

○江戸中期には「とんど」と呼ばれ、後期に「どんど」へと変遷

 江戸時代中期に編集された「和漢三才図会」(正徳3、1713年)には、小正月の焚き火行事として「止牟止(とんど)」の記事を載せています。
 それによると、止牟止とは「正字未詳。俗に左義長といふ。疑ふらくは三毬杖の訛なり。止牟止と三毬杖と二物か。按ずるに、正月十五日、清涼殿の庭において青竹を焼き、もつて吉書を天に上げらる。十八日にもまた、竹を飾り摺扇(あふぎ)に結ひ付け、清涼殿の庭においてこれを燃す。唱文師大黒松太夫その徒四人、{二人は翁の形二人は嫗の形}鬼面を被(かず)き、赤熊(しゃぐま)の髪を蒙り、二嫗は太鼓を携へ、二翁は逐ひ舞ひてこれを打つ。童子二人、素面、赤熊の髪を蒙り、腰鼓を打つ。また傍らに袴・肩衣を着たる者五人、双び立ちてこれをはやすに、<止牟止也(とんどや)>と言ふ。褶袴を着たる者一人、声を和はせて<波阿(はあ)>と言ふ。いまだその来由を知らず。(中略)およそ民間には十五日の朝、毎家の飾り藁・松竹を収め取り、一処に集めてこれを焼くを、止牟止となし、児童試筆の書を天に上(たてまつ)る。禁裏の二節会をもって、ただ一度これをまねするのみ」とあります。

 和漢三才図会によると、江戸中期には小正月の焚き火が広く民間に行われ、一般には「とんど」と呼ばれ、俗に「左義長」と言われていたことがうかがえます。また「とんど」で子どもたちが書初めをもやす風習について、宮中の吉書上げの節会を真似したものではないかとしています。
 この故事が、関西で行われる小正月行事「とんど焼き」の名称の起源になったと思われます。

 さらに江戸時代後期の天明ごろ(1880年代)に編集された「閭間歳事記」によると、1月14日の項に次のように書かれています。
「十四日「今日、どんどなり。(中略)昨日より町内に取り収めたる飾り藁・松竹等を集めて、高さ六尺ばかりに、鐘のやうなる形に拵へ、数条の縄を付けて引くようにしたり。上には五色紙にて小旗を多く作りて立つ。これ名づけて舎といふ。町々みな同じ。昨日より鼓吹の音、昼夜絶えず。今朝六つ半時より、かの舎を郊野へ引き出し、焼き上ぐるなり。いろいろの紙にて作りたる大小の幟を手々に持ち、前後をかこみ、太鼓打ち笛吹きてこれを送る。城下の町々、かくのごとし。(中略)鼓吹の音は四方に響き、嬰児の起舞せるさま、まことに春のしるしなり」
 とあります。

 この記事によると、江戸後期には、小正月の焚き火行事は、一般に「どんど」と呼ばれるようになり、人々は正月飾りなどを集めて、小屋(舎)をこしらえ、上には五色の紙で小旗を立てて、十四日早朝に町外れの野原に引き出して燃やしていること、にぎやかに太鼓や笛を打ち鳴らして囃し立てていることなどを紹介しています。
 つまり、現代のどんど焼きの行事内容の原型は、江戸時代後期には確立していたようです。また、この頃の小正月行事は旧暦で行われていたため、どんど焼きは「春の到来のしるし」と人々に受け止められ、太鼓や笛の音ではやしたて、にぎやかに祝っていたようです。

 さらに江戸時代の後期に編集された「年中行事大成」(文化3、1806年)によると、次のように記されています。
「十五日「大坂にては、昨日より家々注連飾りを取りて、河辺にこれを焼く。みな児童の戯れとす。田舎にては、高さ二、三間の爆竹(とんど)を作り爆(ほこら)す。摂州兵庫近郊には、昨夜、産土神の社壇に一村の者および往還の旅人を引き止め、燈火を消し、男女闇中に入り乱れて一夜を明かすこと、大原の雑喉寝にひとしく、今朝大きなる爆竹を建てて、両方へ引き合ひ、引き勝ちたる方は猟よしとて大いに悦ぶこと、綱引きとひとし」
とあります。

 同じく江戸後期の「諸国風俗問状答」によると、奥州白川(現在の福島県白河市)では
「町屋・農家にては、十四日晩、暁鶴の声を合図に歳徳神の飾り物を一集めに取り、十五日に一村残らず相集まり候て、子どもなど大勢集まり、焼き払い、跡を清め申し候。これを方言にて、どんど焼きといふ。城下町にては、十五日・十六日両日にどんど焼きをすることなり。年始の鏡餅を、この時どんど焼きの所にて焼き、家内洩れざるように食ふ。これ、年中の疫を払ふまじないなりといふ」
 とあります。

   つまり、江戸後期になると、小正月の焚き火行事は、現在の東北地方など全国的に広まり、子どもが主役の火祭りとなっていたようです。また、どんどの火で鏡餅を焼いて、家族全員で食べることで、その年の疫を払い、健康を祈願する風習も定着していたようです。

 以上の日本歳事記、閭間歳事記、年中行事大成、諸国風俗問状答などの古書の記録は小正月行事「どんど焼き」の語源について、重要な示唆を与えてくれます。つまり、小正月の焚き火行事で正月のしめ飾りや青竹を燃やして爆音を立てる風習は江戸時代前期には「唐土(とうど、中国のこと)」から伝来したものと考えられ、はじめのうちは宮中の三毬杖行事との連想で「さぎちょう」または「とんど焼き」と呼ばれていたのではないかと推定できます。
 そのうちに江戸時代後期には、青竹が燃えてはぜる音の連想から「どんと焼き」、最後に集落をあげて盛り上がる「どんど焼き」と変化していき、「さぎちょう」という用語は使われなくなっていった、という流れがうかがえそうです。

 小正月の焚き火行事の内容は、江戸後期になると、祭事の主役は児童となり、行事の性格として「児童の戯れ行事」と受け止める風潮も出てきたことがうかがえます。また、高さ2,3間(3.6~5.4m)もの大きな「とんど小屋」が作られ、村人がふた手に別れて綱引きを競い、その年の猟、もしくは作物の出来具合を占う行事が行われていました。
 さらに田舎では、小正月の夜に男女闇中に入り乱れて一夜を明かすことが行われ、性の解放行事となっていた様子もうかがえます。

 ここで、小正月の焚き火行事について、江戸時代の古書によって「どんど焼き」の起源と行事の実施内容を調査した結果を以下の7項目に要約します。

  (1)小正月の焚き火行事は、江戸前期には都市部の町方の家々で行われていた。1月14,15日に正月のしめ飾りや青竹を燃やして爆音を立てることから「爆竹」と呼ばれ、爆音で邪気を払う行事と考えられていた。焚き火が燃え上がる時に「とんどや、おほん」とはやし立てていた。また、「爆竹」と書いて「とんど」と読ませる事例もあった。最初の頃は燃やす、焼くとは言わず、竹が爆ぜて音を立てて激しく燃える様子から「爆(ほこら)す」と言っていた
  (2)行事の起源については、「唐土(とうど、中国のこと)の正月爆竹行事」が伝来したものと考えられ、はじめのうちは行事の呼び名として「爆竹」のほかに、宮中の三毬杖行事との連想で「さぎちょう」と呼ばれていた。しかし、日本で初めての本格的な百科事典としてある程度の信頼性が高い「日本歳事記」(貞享5、1688年)では、起源について「定説なし」としている 
(3)江戸時代中期には、町方では一般に「とんど(止牟止)」と呼ばれ、俗に「左義長」と呼ばれた。家ごとの正月飾り藁であるしめ飾り、松竹を集落の一箇所に集めて焼くようになった。上流階級では、とんどの火で、児童試筆の書を天に上(たてまつ)る行事も行われていた。
(4)江戸時代後期には、青竹が燃えてドンとはぜる音の連想からと思われる「どんど焼き」または「どんと焼き」が一般的に使われるようになった。「さぎちょう」という用語は、あまり使われなくなっていった。
(5)後期には、小正月の焚き火行事は、現在の東北地方など全国的に広まり、祭事の性格は邪気払いばかりでなく、子どもを主役とした豊作を願う予祝行事の意味合いが強くなった。一方で、「児童の戯れ行事」と受け止める風潮も出てきた。また、どんどの火で鏡餅を焼いて、家族全員で食べることで、その年の疫を払い、健康を祈願する風習も定着した。つまり、現代の小正月行事の原型は江戸時代末期に固まった。
(6)また、正月飾りを集めて高く積み上げて小屋様のやぐらが作られ、小正月に燃やす風習が定着した。村人がふた手に別れて綱引きを競い、その年の作物の出来具合を占う行事が行われていた。 (7)さらに農村部では、小正月の夜に男女が闇中に入り乱れて一夜を明かすことが行われ、性の解放行事に発展するところも出てきた。
(この項出典 角川俳句大歳時記電子版など)

〇東北地方の「どんと焼き」の発祥は仙台から 呼び名は新聞記事がきっかけ?

   河北新報ONLINE Newsは2022年1月12日付けのWEB版で、宮城県の小正月の伝統行事「どんと祭」の起源は江戸時代には行われていた仙台市・大崎八幡宮特有の松飾りを焼く行事「松焚祭(まつたきまつり)」との新説を掲載した(編集局・佐藤理史さん署名記事)。
 さらに「どんと祭」の呼び名の起源については、明治になって河北新報が掲載した記事がきっかけとなった、とした。それによると「大崎八幡宮は九州の宇佐八幡の分身である。九州地方では一般に正月の松を神社の境内で焼くが、これをドンドととなえている」つまり「大崎八幡の松焚祭もすなわちこれドンドであって、その神体が(大分県の)宇佐八幡の分身ゆえ九州の方の習慣が何かの場合にここ仙台に紛れ込んで古来の慣例となったものとみえる」という1906(明治39)年1月14日の記事を紹介。
 この記事がきっかけで以降、河北新報は紙面で「松焚祭(どんと祭)」と表記するようになり、元々の風習とも融合し、どんと祭の呼び名が青森県から新潟県にかけて東北に広まった、という。しかし、この記事では「九州のドンド」がなぜ宮城では「ドント」になったのかの説明は省かれているのは気になる点。

   河北新報web版は、松飾りを焼く風習は140年ほど前まで大崎八幡宮特有の行事で、東北ではほとんど見られないことも、この“どんと祭仙台発祥説”を補強する証拠としてあげている。WEB版では,市歴史民俗資料館の学芸員佐藤雅也さんは「(大崎八幡宮が)小正月の参拝者を温めるために用意されたたき火に、一部の人が松飾りを投げ入れたのが(松焚祭の)始まりだろう。数年の間に口伝えで広まり、規模が大きくなって神事とされ、明治以降は周辺の社殿でも行われるようになったようだ」と話しています。  さらに佐藤さんは、大正時代には「どんと祭」が市民に定着したことから「実際には、西日本の火祭りである『どんど』や『とんど』とのつながりを示す史料はない。仙台の名物として、ある種の観光化が進む中で、仙台の人たちが記事の説に乗っかった結果だろう」と推察している。(出典:河北新報web https://kahoku.news/articles/20220112khn000025.html )  

○なぜ、どんど焼きが「日本の国民的行事」なのか

 なぜ、小正月のどんど焼きが「日本の国民的行事」なのでしょうか。その背景には、2つの理由があります。一つ目に国民の大部分が農耕を生業として暮らしていた時代の1年の豊作予祝、家内安全祈願、厄払いの「迎春・招福行事」、「正月行事の終わりを告げる年神の送り火」の名残りがあります。
 二つ目に、現代人にとっては家庭ゴミとして捨てることができない門松やしめ飾りなど「正月飾り」を焚き上げ処理するための暮らしの必要性があります。全国のほとんどの自治体で、家庭ゴミの野焼きは禁止されています。しかし、地域の伝統行事としての小正月の火祭り、正月飾りの共同焼却は例外として認められているので、住民は近所の火祭り行事に参加して、門松やしめ縄、古神札、お守り、古だるまなどを焼却する慣習となっています。この機会を逸すると、次のお焚き上げは1年後になってしまうので大変です。
 こうした市民の正月飾りの後始末について、2005年12月、愛媛県八幡浜市定例市議会で「正月飾りの処理のあり方、どんど焼きの意義」を議題として、正月飾りをゴミ処理しようとした市当局に対して、その不当性を訴える議員の白熱した質疑答弁があったことからも、どんど焼きに対する市民感情と現代的意義がうかがえます。(詳細は下段の記事を参照)

○小正月行事とは何か

 では小正月とは何なのでしょうか。旧暦の用語であり、大正月と言われる1月1日に対比して、1月15日を小正月と言います。古代の暦では、月の満ち欠けにより、1ヶ月のめぐりが定められていました。旧暦の1ヶ月は月齢ゼロ、すなわち月が見えなくなる新月に始まり、これを朔(さく、つきたち、ついたち=一日)といいます。15日目には満月となり、この日を望(もち)といいます。新月の前の日は晦日(みそか)となり、月の末日をいいます。
 そして旧暦の大正月とは立春前後の朔日であり、この日を元日とします。これを「朔旦正月」といいます。つまり、旧暦本来の新年は必ず春とともに始まっていたのです。小正月は、その年の最初の満月(望)を迎える日であり、「望正月」といわれます。

 以上の2つのポイントは、正月行事の本来の意義を理解するうえで、非常に大切です。

 なぜ2つの正月が存在するのか、なぜ正月を2回も祝うのか疑問に思われる方もいると思います。この「正月の混乱」の説明には定説がありませんが、一番大きな理由は、旧暦が採用されるより前の古代の農耕社会においては、1年の始まりを望とする「望正月」を祝っていたことが挙げられます。望正月は、立春後にその年の最初の満月が上がり、大地に春がよみがえる日とされていました。しかし、朝廷が古代中国の暦法である朔旦正月を日本の暦として取り入れたことから、混乱が始まったのです。

 具体的には、日本では7世紀末ごろに中国(唐)の暦法を使い始め、江戸時代の1685年に日本人が作成した貞享暦に改暦されるまで続きました。その後、「太陰太陽暦」として、宝暦暦、寛政暦、天保暦と改暦されました。これが旧暦です。
 旧暦では朔旦正月が公式の元日であると制定されたものの、農村では現在に至るまで古代社会のしきたりである望正月の行事が廃止されることなく、むしろ農村集落をあげて、朔旦正月よりも盛大に望正月を祝う風習が現代まで続いているのです。

   以上の調査結果から、現代の小正月行事としての火祭り「どんど焼き」の起源は、7世紀末以前、一年の始まりを春の最初の満月の日と定め、その年の農作物の豊穣を火祭りで予祝する「望正月」の風習を受け継ぐものと考えて良さそうです。
 そのことを立証する行事が、宮崎県延岡市須佐町の熊野神社で行われている「歳頂火(せとき)」火祭りです。歳頂火(せとき)は無病息災や五穀豊穣を祈願する旧暦小正月の伝統火祭り行事で、古代から続く、およそ1300年の歴史があります。旧暦の一年の最後の日とする旧暦1月14日の夜、ヤマと呼ばれる井桁に組まれた大きな生木に、神殿で起した神火がつけられます。この神火で一切の厄を焼き払い、健康と五穀豊穣を願いながら、新しい年(旧暦1月15日=小正月)を迎えると伝承されています。つまり、歳頂火とは年の始めの神火の意味で、古代の「望正月」の慣習を受け継ぐ行事と考えられます。現在では、旧暦の1月14日に最も近い土曜日に行なわれています。

   こうした経過から、大正月が社会上層の社交儀礼的性格を持っているのに対して、小正月は農耕儀礼を中心とする農民的庶民的性格を持っていることが大きな違いとなります。農村部では大正月が個々の家庭を単位として祝うのに対して、小正月では集落をあげて盛大な共同祝祭として祝うことが特色となっています。
 農村では大正月より小正月の農耕儀礼が大切にされる理由は、近代以前の日本の民衆のほとんどが農業をなりわいとしていたからです。農作物のなかでも五穀(五種の主要な穀物。米・麦・あわ・きび・豆。転じて穀物の総称)の豊作、凶作が、その年の暮らしに直接影響してきます。旱魃(かんばつ)、日照不足、豪雨、暴風、病虫害などいったん発生すれば、人々には対抗する手段もなく、大自然の脅威の中で人事を尽くしつつ、ひたすらに祈り、神仏の守護を求めるしかなかったのです。そのことは、科学技術が進んだ21世紀の現代においても変わりはありません。
 その祈りを捧げるべきときは、冬が終わり、これから農事が始まる重要な季節の節目となる日でなければなりません。その日とは望正月(小正月)のことであり、1年の最初の清々しい満月が上がり、大地に春がよみがえる晩でなければならなかったのです。
 満月に神秘な力を信じた古代の人々は、新春とともに迎える満月と神火に、この1年の豊作、豊漁、健康を祈願する集落儀礼としての予祝、豊凶占いを大切にしていました。新春を新月で迎える朔旦正月では真っ暗闇となり、豊作の祈りが成り立ちません。古代ばかりでなく現代にあっても、望の小正月が最も大切な年中行事として、農村の暮らしに深く根を下ろしているのは、以上の理由があったからです。

○正月行事の意味を形骸化させた明治の改暦

 人々の暮らしが農耕で成り立っていた時代、特に明治以前には1年の作業スケジュールは旧暦(太陰太陽暦)と二十四節気に従って組み立てられていました。人々は旧暦1月1日から15日間、すなわ小正月(望の日)までは休日として過ごし、小正月を過ぎると春が到来していますから、再び農作業の準備に取り掛かる生活が送られていました。
 旧暦の暮らしでは、小正月と一緒に二十四節気の「立春」「雨水」「啓蟄(けいちつ)」がやってきます。小正月が終われば、植物の若芽が芽吹き、虫が穴から這い出してくる頃となり、農作業を始める目安となっていたのです。

 ところが、明治政府は明治5年、西洋のグレゴリオ暦(太陽暦、新暦)の採用を布告し(明治の改暦)、その年の12月3日を明治6年1月1日と決めました。この年は閏月があったため、旧暦の元日と新暦の元日とはおよそ2ヶ月近い開きが出てしまったのです。
 この改暦と同時に政府は季節の巡りと深い関係にあった年中行事の日程を新暦に読み替えるよう通達したのでした。
 この措置により、人々は、新春とともに迎えていた元日を、真冬の最中に祝わなければならない事態となり、それ以来日本人は正月行事ほかさまざまな年中行事に込められていた季節感覚を失ってしまうこととなったのです。旧来の大正月、小正月の混乱に加え、本来迎春の祝祭であった正月行事を“迎寒行事”に強制的に移行させたため、本当の正月行事はいつなのか誰にも分からないという混乱は、現代まで続いています。

 日本人は古来季節感を大切にして、美しい四季のうつろいに寄り添いながら暮らしてきたとされてきました。ところが実態は日々の生活から旧暦の年中行事を新暦に強制移行してしまったため、季節感のよりどころとなる二十四節気のうつろいに無頓着になってしまったのです。
 旧暦時代の日本人の季節感は、二十四節気をさらに細分化し、七十二候を唱え、美しい四季の微妙なうつろいを、なんと5日を単位として感じ取っていたのです。暮らしの上では、それでも足りず、さらに土用、八十八夜、入梅、半夏生、二百十日などの「雑節」という区分けまで取り入れて季節とともに暮らしにメリハリをつけていたのです。現代の日本人にそのようなきめ細やかな季節と向き合う感性は喪われたとしか言いようがありませんが、それでも節分になると恵方巻を食べ、土用になるとウナギを食べようなどと商業の販促イベントには残っていますが...

○大正月、小正月、立春正月(節分)は結局どれも新年を迎える同じ行事

 日本と同様に太陽暦を採用している中国などでは、正月行事の季節感の混乱を回避するため、新暦カレンダー上の元日は、そこそこに祝い、旧暦による正月(春節)を大切な休日として盛大に祝うという民衆の生活の知恵で乗り切っています。また、中国では、季節感を大切にした暮らしを守っており、2016年10月31日、中国の「二十四節気(にじゅうしせっき)」はユネスコ無形文化遺産へ登録されることが決定しました。

 実はこの二十四節気は日本にとっても非常に大切な暦法なのです。国立天文台暦WIKIによると、二十四節気は、1年の太陽の黄道上の円周運動を24等分して決められています。そして、太陰太陽暦(旧暦)では季節を表すために用いられていました。月の満ち欠けで日を数える太陰暦では季節のズレが発生します。二十四節気を用いて季節のズレを判定し、うるう月を挿入することで1年の長さを1太陽年に近づけた暦が太陰太陽暦なのです。
 日本や中国の太陰太陽暦では伝統的季節の決め方を、暦月で区切る場合:正月~三月を春、四月~六月を夏、七月~九月を秋、十月~十二月を冬とします。春正月・秋七月のように呼びます。
節月で区切る場合:立春・立夏・立秋・立冬をもって四季の始まりとします。
 この「節切(せつぎり)の暦法」によると、節気から次の節気の前日までの間を1ヶ月とし、1年は立春から始まります。節切による正月(睦月、1月)は立春から啓蟄の前日、2月(如月)は啓蟄から清明前日などとし、1月から3月までを「春」と決めていました。
 節月によると、立春の前日すなわち大寒の最後の日が節分であり、太陰暦の1年の終わりである節分=大晦日(おおみそか)となるわけです。節分の夜は年越しとなり、「年取りの豆」と称して、年の数だけ豆を食べる習慣が今も続いています。また、節分には厄災(鬼)を払い、新年を迎えることが大切な行事となるのです。柊(ひいらぎ)の枝にいわしの頭をつけて門戸にかざし,豆まきをして追儺(ついな)という鬼払い、鬼追い、厄払いを行う習慣が現代も守られています。
 この節分の厄払いは季節の変わり目に鬼がやってくるという伝説によって生まれた風習です。ところが、この考え方が大正月、小正月にも適用され、東北地方では新暦大晦日のナマハゲ、小正月のアマハゲの鬼行事として行われています。九州では七日正月に転化され、燃やした竹のはじける音で鬼を追い払う鬼火たき、鬼夜などの行事が、毎年1月7日に行われています。
 暦法上の年越しの意味を考えれば、節分の鬼、ナマハゲ、アマハゲ、鬼火、鬼夜も、いずれも同じ「望正月」時代の大晦日の厄払い行事なのです。

 以上の正月の慣習をまとめると、日本では、古代から現代までの間に旧暦、新暦、節切り暦などの暦法の変遷があったことから、様々な新年を迎える行事が混在することとなり、現在の「正月行事の大混乱」をもたらしているのです。つまり、過去の大正月、小正月、立春のどれもが元日としての大切な意味を持っているため、廃止することができず、それぞれ新年を迎える行事として重ねて行われていることになります。
 このうち立春元日について、日本では新年としての意味付けが薄れていますが、節分行事が「この1年の厄(鬼)払い」と「年取りの豆を食べる」ことから、立春正月を迎えるための大晦日の行事であることが明らかです。
 ヨーロッパでは、立春新年の考え方が重要視されていて、立春ごろには「ヴァルプルギスの夜」「カーニバル(謝肉祭)」のパレードが各地で盛大に行われています。
 「季節の変わり目に鬼がやってくるという伝説」は欧州でも広く信じられており、オニの仮面仮装の行事は、冬から春への季節の変わり目に広く行われております。日本のオニに相当する悪魔の仮面をつけた男たちが、冬を追い払い、春の到来を告げながら、邪気(鬼)を音で追い払うベルを身につけ、1年の豊穣を祝って、街を練り歩きます。行事の趣旨は、日本の追儺とヨーロッパのカーニバルは、邪気を払うための同じ立春新年の行事と言えそうです。その考察は別項目で詳述いたします。

   国際調査の結果から、デジ研の「小正月行事調査」は、対象を新暦(グレゴリオ暦)1月15日の「小正月」に限定する意味が、実はほとんどないことになってきました。この知見に基づき、小正月行事調査の対象は「新年、新春を迎えるための行事」として広い視野で世界規模で実施することといたしました。

○旧暦の正月行事に込められていた迎春の喜び

 正月とは旧暦(太陰太陽暦)の呼び名であるので、本来の正月は、立春とともにやってくるものでした。約30年に1度、立春が朔と重なり、旧暦1月1日になる年「朔旦立春」があり、立春と元日が一緒になる、たいへんめでたい日とされます。近年では新暦1992年2月4日が朔旦立春のめでたい日となりました。
 大地の季節のめぐりの中で生きていた人々の気持ちとして正月行事とは、春の到来を祝う行事=迎春の祭典にほかなりませんでした。このため、旧暦正月の挨拶として人々は「迎春」「頌春」「初春」「新春」の祝辞を交わし、現在でもそのしきたりが、年賀状に「形骸化した祝辞」として継承されています。
 日本人の季節感覚が狂ってしまったのは、明治の改暦により新暦(太陽暦、グレゴリオ暦)へと移行してからでした。冬の寒さが厳しくなる「寒の入り」の「小寒(1月6日ごろ)」「大寒(1月20日ごろ)」がこれからやって来るというのに、人々が元日に「迎春」「頌春」と書いて賀状を出すのは「大ボケ」です。しかし、いくら寒くとも心情として「迎寒」「頌冬」とは書けないので、なんともせつない年賀の慣習になってしまいました。

 明治に制定された新暦では、立春がほぼ2月4日となります。旧暦では立春ころの最初の新月である「一月朔の日(朔正月、中国の春節)」を新年の始まりと定めていました。旧暦正月は、新暦ではほぼ1月下旬から2月下旬の間を移動し、毎年変わります。2015年のカレンダーでは、立春が2月4日、旧暦元日は2月19日で、二十四節気の「雨水」と一緒の日になります。さらに新年最初の満月の日=旧暦小正月の1月15日は新暦では3月5日となり、翌日が植物の若芽が芽吹く啓蟄となります。
 つまり、小正月の火祭り「どんど焼き」とは、本来、春の息吹の中で迎える「満月の夜の火祭り」だったのです。詳細は後述しますが、日本と同様に「正月のどんど焼」を祝う韓国では、古来の伝統に従って、今も旧暦の満月の夜の火祭りとして各地で行われています。

 現代のようなコンビニ、スーパーのような便利な物流、電気、ガス、石油などの暖房のある暖かい住まいがなかった時代のことを想像してみますと、人々の冬の暮らしは厳しい寒さにじっと耐えながら、春の到来を待つ日々が続きます。特に雪国の暮らしは、地域社会全体が雪に閉じ込められた厳しいものでした。
 冬の備蓄食糧も非常に限られていました。人々は五穀、野菜、魚などを塩漬け、干物など工夫を重ねて保存し、年を越すために大切に食をつないでいました。しかし、凶作の年などには、食べるものも底をつき、絶望的な状況に追い込まれることもありました。そのような食糧難は、20世紀の昭和時代初期まで日常的に起こっていました。毎年の冬の暮らしは、人々にとって、生き残りのための厳しい闘いでもあったようです。

 寒さや飢えと闘う厳しい冬の暮らしは、古代の話ではなかったのです。日本では昭和20年代まで国民の食糧確保が国家政策の最重要課題であり、そのために植民地を求めて海外に領土を求めて侵略する事態まで起こっていました。昭和30年代以降の日本人は、高度経済成長の到来により、豊かな暮らしを実現しましたが、その「飽食の時代」も古代から数千年の日本の歴史の中では、わずか、ここ半世紀ほどの例外的な出来事と言わなければなりません。日本、そして世界の人々の歴史は、常に飢餓との戦いだったのです。

 昭和前期以前の人々にとって、春を迎える喜びというものは、現代人には想像できないほど、大きいものがあったようです。旧暦の暮らしでは立春とともに正月を迎えるということは、春のうきうきとした天地の陽気の移り変わりがひしひしと感じられるばかりでなく、生きることの希望も一緒にやってきたのだと思います。そうした人々の感情は正月に配られる「立春大吉」という護符にもしっかり表現されています。

 このため、新年のあいさつで年賀状に「迎春」「初春」「新春」の喜びを述べるのは、本当に心から湧き上がってくるそのままの喜びの生活感情を伝えていたのです。

 伝統的な日本人の感性は、季節のめぐりを敏感に感じて、季節に寄り添い、うつろいゆく季節の美しさ、変化を愛でながら暮らしてきました。季節と暦がずれないことで、日本人の感性が保たれてきたのです。
 ところが、新暦の正月では、「迎春の喜び」という生活感情は、全く感じることができません。新暦の正月は二十四節気の冬至から大寒ごろとなり、春遠い厳寒のさなかに、身も心も縮こまったままで正月を過ごすことになってしまったのです。本来は正月から春が始まっていたはずなのに、暦と季節のめぐりが切り離されたため、現代人には春がいつから始まるのかさえ分からなくなってしまいました。さらに、都市化された暮らしの中で、うつろいゆく季節の美しさを愛でる余裕すら無くなってきているのが実情ではないでしょうか。

   しかし、人々が春とともに新年を迎えたいという心からの願いは、改暦とともに、決して消滅してしまったわけではありません。旧暦の正月節にあたる立春の前日である節分になると、京都では各所の神社仏閣で「節分祭」が開催され、新暦新年の初詣でと同様に、大賑わいとなります。旧暦で暮らしを営んでいた古代の人々とって春の節分は、一年の厄をはらい、来たる年の福を迎える大みそかのような日でした。
 今でも、京都の人々はまるで初詣でで新年を祝うかのように、節分祭と翌日の立春を心待ちにして、年取りの「福豆」を買い求めるということです。また、同じように全国各地で節分の豆まきが行われ、この一年の厄を払い、福を招く行事が行われるのも、実は、立春に新年を祝った古代の人々の心を今も受け継いでいると言えそうです。

○政府の都合で迎春の祝祭行事を失った日本人

 明治5年11月9日の改暦の布告から、新暦への移行をわずか20日間で断行した明治政府ですが、実際に人々の生活に混乱が起こっていたことは、国立天文台のWEBサイト「暦WIKI」で紹介されています。引用すると「新暦正月は多忙な時期(麦蒔き、糖の精製、綿の収穫、まきの伐採など)だから祝う暇がない」、「米の収穫から日が浅く、まだ納め終わらない。商取引も完了していない」「新暦正月は雪が多いから」などの混乱を明治政府も認識していたということです。

 「暦WIKI」によると、明治政府が新暦を断行したのは、時代が変ったことを国民に印象付ける意味もありましたが、西洋の契約社会に合わせていくためには、1年の長さが365日とほぼ一定となる新暦が必須だったということです。旧暦では1年が13カ月となる閏月が存在し、1年の長さが変わってしまうので、近代の契約社会のためには不都合だったことが大きな理由とされます。
 実は「暦WIKI」によると、明治政府が20日間で改暦を断行した本当の理由は、経費削減にあったということです。明治6年に閏月があり、月給制を採用した新政府は1か月余計に給料を出さねばならないはずでしたが、太陽暦を採用することでその1か月、さらに2日間だけの12月もあわせて合計2か月分の給料を節約できたことになります。

 明治政府の都合はともかくとして、人々の暮らしに根ざす年中行事の日程を新暦に強制的に置き換えてしまったことは、まことに不合理的といわざるをえません。日本を除く東アジアでは、新暦の正月は簡単に済ませて、旧暦の正月を盛大に祝う慣習が主流になっているのは民衆が上記の不合理に反発したためだと言われています。旧暦で正月を祝う中国などでは、街中の至るところで爆竹や花火が上げられ、まさに迎春の喜びを「爆発」させます。
 日本では政府の方針で、暮らしの重要な節目である年中行事の慣習を、あっさりと季節のめぐりから切り離してしまいました。明治以降の新暦では、正月や盆など旧暦に基づいた行事の日程が、単純に新暦の同じ月日に置き換えられたため、行事に込められていた季節に根ざす生活感情が全く宙に浮いたものとなってしまったのです。なんとも政治権力に従順な日本人の姿が表れています。

   このため、「新春の正月」だったはずが、現代では正月の本来持っていた意味とこころが喪われ、「立冬から大寒ごろの厳寒の正月=厳しい寒さの中で遠い春を待ち焦がれる正月」になってしまったのはその極端な事例です。本来は立春を迎えて行うはずの、ウキウキとした正月の祝祭行事を、寒波や大雪のなかで震えながら耐寒行事として行っている現代日本人の姿は、滑稽といえるかもしれません。
 四季の移ろいのなかで、暮らしのリズムを刻んできた伝統的な日本人の心のなかで、最も大切な迎春正月の季節感覚を喪ってしまったこと。さらには、春を迎え、生命の再生を祝う春の祭典(それが日本をはじめ世界のどんど焼きの本来の趣旨)を喪ってしまったことは、返す返すも残念なことと言わなければなりません。

   しかしながら、農業では、季節と密接に結びついた作業をしなければならないため、季節のめぐりの目安となる「二十四節気」を今日も使い続けています。小寒・大寒・立春……冬至という、約半月ごとの季節の目安が二十四節気で、旧暦の計算方法とともに中国から伝えられたものです。現在でも、農業向けのカレンダーには新暦とともに旧暦と二十四節気、月齢が併記されているのを目にすると思います。

   

○明治政府の民俗文化弾圧は日本人の暮らしを変えた

 欧米をお手本として文明開化による近代国家の建設を目指す明治政府は、改暦と並行して、民間で行われている年中行事の多くを「因習、陋習」として退け、数々の禁止令を出しています。
 民間の年中行事への弾圧は、全国の県令(知事)が布告などの形式で実施しました。山梨県では、道祖神祭礼の禁止、門松の簡素化などが布達されました。特に道祖神祭は、行事内容が祝儀の強要など若者の悪弊であり、地域の秩序を乱すとされたのです。
 甲府では道祖神が強制的に撤去されて、道祖神祭が禁止されてしまいました。華やかな甲府名物の民俗文化であった道祖神幕も陋習とみなされ、姿を消していきました。
 さらに明治5年12月3日を明治6年1月1日に改める太陰太陽暦から太陽暦(グレゴリオ暦)への改暦により、全国の民俗行事が大混乱に陥ってしまいました。このなかで、政府は、弊習とされた民間の年中行事に代わって、国が定めた祝祭日を祝うことになっていったのです。太陰太陽暦は農暦として、農村社会の暮らしのなかに、密接に使われていましたが、明治の改暦により、虫送り、雨乞いなどの農業儀礼は因習とみなされ、廃れていきました。

○本来のどんど焼きは「新春の満月の夜の火祭り」だった

 これまでの考察をまとめると、明治以前、旧暦の小正月に行われていた本来の「どんど焼き」は、その年の最初の満月の日に行われる、春を迎え、生命の再生を祝う「春夜の火の祭典」という位置づけになることは、どんど焼きの成立を考える上できわめて重要です。
 「どんど焼きの火祭り」は、神火による浄化の力で、集落の人々の1年間の災いを払う意味があります。さらに、この「火の祭典」に、神秘な力があるとされる「年初めの満月」が重なります。実際に月の力は潮の満ち引きを起こし、人間の生理にも強く影響していると言われているわけですから、人々の祈りの力、神火の浄化の力に加えて、月の神秘な力も合わされば、最強のパワーが期待できると考えられていたようです。

 また、以上の考察により、道祖神祭りと小正月のどんど焼きが合体する理由も明確になります。道祖神は集落の境界に設置され、外部からの災から集落を守る「防塞の神」として祀られています。この「道祖神」と集落の安心安全、防災、地域繁栄を祈願する小正月の「どんど焼き」が合体するのは、以上の「集落防災」の趣旨からすれば当然とも言えます。

 韓国では、現在でも明治以前の日本人が行っていた旧暦小正月行事を忠実に守っています。集落ごとに藁や薪を積み重ねたタルジプと呼ばれる「月の家」に願い事を書いた紙をつるしてタルジプ焼きで一緒に燃やし、厄を払い福を招きます。また、家族や親戚が集まり、新年で最初の満月を見ながら今年1年の願い事を祈ります。農村では、日本の小正月行事「年占(としうら)」と同じように、一年の最初の満月テボルムに行う月見では、1年の五穀豊穣を祈り、その年の収穫を占います。月の光が赤ければ日照りになり、白ければ梅雨がある兆しとされています。
  日本、韓国でこの1年の農作物の豊凶を占う「年占」は、イタリアの農村でも1月5~7日にかけてエピファニー・ピニャルル(公現祭の火祭り)で行われています。農民は、日本、韓国の「どんど焼きやぐら」と同じ形式のわらや木の枝などで作ったピニャルルのやぐらを作り、火祭りで燃やします。「ピニャルルの煙が西へ行くなら、袋を持って世界に移住してください(凶作)。煙が東に行くなら、袋を持って市場に行ってください(豊作)」などといいながら、この1年の豊凶を占います。

○調査で判明した小正月行事に込められた7つの開催趣旨

 あらためて小正月行事に関する全国調査の結果により、大正月から小正月に至る集落で行われる一連の行事の意味をまとめてみますと、旧暦で人々が生活を送っていた時代には、新年と新春は必ず一緒にやってきました。大正月では春の到来とともに、家の前に門松を飾り、歳神や祖霊をお迎えする行事が中心となります。このため、大正月は家庭が単位で行われます。これに対して、小正月行事は、地域の集落を単位として、春を迎える準備が中心となります。

 小正月では農休みも終わり、春を迎え農作業に取り掛かる準備に取り掛かるための重要な節目となります。この節目に行う火祭り行事「どんど焼き」には、以下の7つの開催趣旨があることが全国調査から分かりました。(調査結果一覧を参照)

(1)歳神(祖霊)のお見送り。正月飾りを焚き上げる炎と煙にのせて送り火とする(正月の送り火)。あわせて、子どもたちが書き初めを炎にのせて天に上げることで書道の腕が上達することも願う

(2)この1年の豊作(農村では五穀豊穣、漁村では大漁、街では商売繁盛)を祈願する(予祝)。このため、豊作の障害となる「害虫、害鳥駆除のまじない」(具体的には鳥追い、火振り、もぐら打ちなど)が合わせて行われたり、その1年の作物の豊凶を占う年占(としうら)として筒粥占い、大綱引きが行われたりする

(3)この1年の家族の健康や集落の厄払い、防災を祈願する。獅子舞などの悪魔払い、厄祓いの行事が火祭りの前に行われる地域がある。この趣旨は、追儺行事(鬼払い)と同様である

(4)小正月行事が道祖神祭として行われる地域では、新婚家庭への子授け、子孫繁栄を祈願する

(5)迎春の喜びを集落で分かち合う。迎春儀礼として、春駒などの春を祝福する行事が火祭りの前に行われる地域がある

(6)伝統的な小正月の一連の行事では、子どもたちが主役を務めている。神や精霊の使いとなって集落内の各戸を訪問してこの1年の福を授ける重要な役割を果たしている

(7)小正月を迎えるため、前の晩にどんど焼きのお小屋で集落の人、あるいは子どもたちだけが集まって「おこもり(年籠り)」を行い、酒食をともにしながら夜更かしをする地域がある。これは「望正月」として寝ないで新年を迎えた古代の風習と考えられる

 小正月の火祭りで、「豊作の予祝」と「防災の悪魔払い」が同時に行われるのは何故でしょうか。それは、農耕・漁労などが人々の暮らしを支えていた時代にあって、自然は豊かな恵みをもたらしてくれると同時に、台風・地震災害などの天災により人々の暮らしを破壊する両面性があったからでした。自然は「神様と悪魔」「恩寵と破壊」が表裏一体のものとして、人間に関わっていました。
 特に古代から昭和初期まで日本の農業とは稲作を中心としていたことを注目しなければなりません。稲などの穀物の収穫は年に1度ですから、やり直しが出来ません。自然の恩恵が得られず、凶作となれば、食糧が無くなる飢饉となります。この飢餓の恐怖は、昭和の時代まで続いていたのです。

 現代のように治山治水、農業用水のインフラ整備、薬剤による病虫害の防除方法がなかった時代には、雨が降れば水害、日が照れば干害、風が吹けば風害、害虫、害鳥が増えれば虫鳥食害、さらに台風、地震と、人々の農耕生活は1年中、気の休まる時がありません。
 しかも、いったん、これらの天災の襲来を受ければ、人々にはなす術(すべ)もなく、残されているのは集落の人々が心を合わせて祈ることだけでした。
 その状況は、現代においてもさほど変わったわけではありません。実際に毎年の台風被害、阪神・淡路大震災、東日本大震災の例を見るまでもなく、人間の智慧が自然の脅威を克服できたわけではありません。

 つまり、小正月に集落の人々が集い、祈りを捧げることは「無知蒙昧な旧幣」ではなく、21世紀の今も人々の自然への畏敬の心に根ざした現代的意義を持ち続けているです。
 これらの小正月行事火祭りの祈りのこころは、日本独自のものではないことが、デジ研の国際調査で明らかになってきました。その開催の趣旨、祈りのこころは韓国の小正月行事でも共有され、ユーラシア大陸の西端のヨーロッパの国々で行われている春の火祭りでも共有されています。そのことは後述いたします  



◎持続可能な発展へ 小正月行事は、世界に誇る日本人の智慧

 この「五穀豊穣の祈り」をいつ天地の神仏に捧げるのべきなのか? そのタイミングは、一年の農作業が始まる前、年の初めに春がやってくる時節でなければなりませんでした。祈りには、この1年に農作物の恵みをもたらしてくれる良い神様だけを招き入れ、暮らしの脅威となる悪魔、邪鬼や厄災は来ないでほしいという2つの切実な願いが込められているのです。具体的に、旧暦の小正月は、冬ごもりの虫がはい出てくるといわれる二十四節気の啓蟄の頃となり、農業の害鳥や害虫を追い払う各地で「鳥追い」「火振り」「もぐらうち」などが厄祓いの行事として行われることには、相当の理由があったのです。

 さらに重要なことは、地域コミュニティの家内安全、五穀豊穣の予祝、厄払い(悪魔払い)のために、集落内の各戸を訪問しているのは、中学生以下の子どもたちであることです。岩手県の「かせどり」、宮城県の「チャセゴ」、山梨県の「きっかんじょ(キッカンジともいう)」、鳥取県の「酒津のトンドウ・コリトリ」、熊本県の「かせいどり打ち」など、全国各地の農村部では、子どもたちは、小正月になると、地域の道祖神などの神や精霊の使いとなって、地域の人々に招福や悪魔祓いの浄化の力をもたらす行事が繰り広げられています。
 山梨県甲州市では、子どもたちが集落内の各家を回り、新年の祝福の言葉を述べて、ご祝儀をもらう小正月行事キッカンジ(木勧進)が行われています。キッカンジは、旧塩山市内の各集落を単位に正月の7日に行なわれています。
 このうち、塩山神金地区でキッカンジを行っているのは(2010年当時)、中子沢、藤原木、踊石、下小田原、一之瀬高橋のみですが、以前はほとんどの集落で行われていたということです。中子沢集落のキッカンジは夕刻に子供たちが道祖神場に集まり道祖神、籠馬(カゴウマ)、棒振り(ボウフリ)などの役を決めます。道祖神役は御幣(ゴヘイ)の御神体を持ち、カゴウマ役は竹の枠組に紙を貼った馬に乗り、ボウフリ役はその馬方となる。各家ではまず、御幣の御神体が「ドーソジンサン、ゴネンシ」と玄関に入り、その後皆で掛け声「商売繁盛、ハッコミショ、ハッコミショ、お蚕ドッサリオオアタリ(養蚕が盛んだった頃の名残。平成になってからは省略されている)」を唱えながら、家人から御祝儀をもらいます。ハッコミショとは福を掃き込む意味といわれています。大人も子どもと一緒に太鼓と双盤をならし、祝福を述べて回ります。
 以前は、婚礼のあった家には、土足で座敷に上がり込んで、祝福するのが習わしで、子どもが生まれた家でも、新婚の家同様御祝儀をはずむ風習があるということです。

   このことは、小正月行事の根幹には、地域社会の持続可能な発展という切実な願いを踏まえて、最小自治単位としての集落において、絶え間なく子どもが生まれ育ち、「生命の再生と未来への希望」が確保されていることが最低限の条件であるとの認識が、しっかりと根付いていることを物語っています。
 すなわち、集落に子どもたちの明るい笑顔が満ちあふれ、次の時代を担う子孫が繁栄しているところから、未来の希望が生まれてくるのです。子どもたちが神様からの授かりものであり、地域の家々や集落全体に福をもたらすという人々の想いが、小正月で子どもを主役とするさまざまな行事のカタチとなって現れているものと思われます。

 そればかりでなく、子どもたちが小正月行事を通じて、集落の繁栄や防災に大きな声をあげてかかわる、コミットメントをすることで、「集落の明日を担うのは自分たちだ」という自覚をもたらす効果が、自然な形でうまれてくることが重要なのです。
 小正月行事では、大人が子どもたちを集めて、地域の繁栄、防災について無粋な“お説教”をすることはありません。大人の上から目線の強制ではなく、全国各地で子どもたちが「小正月遊び」の行事として、各戸をまわり、大声で唱和しながら「家内安全」「五穀豊穣」「商売繁盛」「大漁満足」を叫び、お礼に祝儀の“お小遣い”をもらうのです。これは、集落の持続可能な発展を願う先人の叡智が込められた風習であるということができるでしょう。

 全国調査の結果から読み取れることは、小正月行事のいちばん大事な開催趣旨とは、集落の住民が子どもも含めて総出で寄り集まって、どんど焼きのご神火と歳神や祖霊の力を借りながら、みんなの祈りの力で、この1年の「五穀豊穣、大漁、商売繁盛、家内安全、無病息災」を招き入れ、「厄災」を追い払うことにあります。
 地域の豊かな暮らしのために祈り、そのために努力し、そのために地域のみんなが力を合わせていく「共助」を、毎年の歳の始めの火祭り行事で確認しているのです。
 イランなど中東アジアの新春新年行事ノウルーズが、ユネスコから人類の無形文化遺産として認められ、韓国の小正月行事のいくつかがユネスコ文化遺産となっています。日本の小正月行事は、子どもの訪問神行事という一つの事例をとっても、世界の文化遺産と比べて勝るとも劣らない文化価値を有しています。日本の小正月行事は、持続可能な発展をテーマとした、日本人の智慧の文化遺産として、世界に誇るべきものではないでしょうか。
 以上の調査結果に基づく主張は、日本の民俗行事に対する文化行政の在り方に対する是正要望でもあります。ユネスコはイランの「ノウルーズ」については、新年祝祭に関連した行事全体の価値を認めたものです。ところが、日本の文化行政では、小正月の祝祭行事について一連の連携した行事群のなかから、ある特定の外見の面白そうな行事だけを取り出して、無形文化財に指定する傾向があります。この文化行政措置は、その一連の流れによって構成された民俗文化行事の全体の価値や意味に対する理解を著しく損なう恐れがあることは、指摘しておかなければなりません。

○日本のどんど焼きは歳神様の送り火 

 本調査により、日本国内のどんど焼きは全国で共通して、地域の住民が青竹、藁、檜の枝などで作ったお小屋(調査結果ではドンドヤ、オカリヤとも)、やぐらを燃やして、その火で門松や注連飾りなどの正月飾り、また古神札や前年に飾った「だるま」などの縁起物を焚きあげる行事が行われています。農山村地域では、歳神様を送る「正月の送り火行事」として、集落を単位として行われています。
 参加者は燃え盛る火を「神火」として、その1年の「家内安全」「無病息災」「五穀豊穣」「商売繁盛」「大漁」「厄払い」などを祈願し、年初にあたりその1年の「生業の予祝(なりわいのよしゅく)」「厄払い」「子宝授け・子孫繁栄」などを祈る「祈年(としごい)」が全国でほぼ共通して行われています。

 地域の集落の近年の民俗学の研究によりますと、毎年家を訪ねてくる歳神とは先祖の霊が昇華したものであり、子孫の繁栄を見守りにやってくるとされます。つまり、どんど焼きでは、今を生きる住民が祖霊をお正月料理でおもてなしして、この1年の集落の豊作、豊漁、安心安全、子どもの健全育成を加護してくれるよう祈る意味が込められていると考えられます。

 日本の小正月火祭りと同様の趣旨で行われている韓国の「タルジプ焼き」では、明確に「ご先祖様の送り火」として行われています。

 このように「どんど焼き」の背景には先祖信仰の「盆の送り火」と同様の意味があります。このことは山梨県笛吹市芦川町で、旧盆の7月14日夜、道祖神祭・どんど焼きが地域の伝統行事として行われていることからも、根拠のある仮説として成立していると思われます。

○どんど焼きは「集落の持続的な発展を祈る」祭り 震災復興の祈願も

 全国調査により、大正月、小正月行事の役割分担が明確になってきました。元日の大正月が家庭を単位として、その1年の家内安全、家族の無病息災を祈願するのに対して、15日の小正月では集落を単位として、その1年の集落全体の五穀豊穣の豊作、豊漁、商売繁盛、厄払い、合わせて各家庭の「家内安全」「無病息災」「子孫繁栄」などを祈願することが、全国で共通して行われています。

 どんど焼きでは、「正月の送り火」によせて「新年の予祝・厄払い・子孫繁栄」を年毎に住民が共同で祈ることが、小正月行事の国内の共通事項となっています。小正月行事におけるどんど焼きの本質は、神火の前で住民が集落・地域共同体の絆を確認し、ともに祈ることであることが、全国調査で明らかになりました。
 家族が揃って雑煮を食べたり、家族で初詣に出掛けたりするなど個々の家庭を単位とした行事の多い大正月に対し、小正月では集落をあげて集う、年始の大行事となっています。小正月行事では集落の住民が総出で寄り集まって、どんど焼きの火で歳神や祖霊を送るとともに、この1年の豊作・豊漁祈願、商売繁盛を祈願したり、繭玉だんごを焼いて一年の健康を祈願するなど「祈年(としごい)」と言われる集落単位の行事が中心となります。

 小正月行事における具体的な祈りの事例を、2016年1月に山梨県山梨市三富川浦の湯之平集落で行われた道祖神祭で見てみますと、まず道祖神祭のオカリヤ(御仮屋)の前に飾られた一対の灯籠(とうろう)には、祭神の名前が「道祖大神」とともに「猿田彦之尊(さるたひこのみこと)」の2柱の名が記され、合わせて住民総意の祈願として「五穀豊穣」「組中安全」「湯之平繁栄」などと書き込まれています。
 さらに集落の各戸を大人や子どもたちが訪問する祝福行事のための手持ち灯籠には「五穀豊穣」「健康第一」「家庭円満」「組中安全」「経済安定」「盗難防止」などの祈願が記されています。灯籠のデザインには、道祖神祭を通じて、この一年の集落で以上の祈願が実現するように、住民が団結して暮らしていくことが決意表明として示されています。

 道祖神祭のおかりやと灯籠
 山梨県山梨市三富川浦の道祖神祭のオカリヤと灯籠(2016年1月10日)
  道祖神祭の灯籠
 山梨県山梨市三富川浦の道祖神祭の灯籠(2016年1月10日)
  道祖神祭の灯籠
 山梨県山梨市三富川浦の道祖神祭の灯籠(拡大)(2016年1月10日)

 こうした小正月行事で捧げられる住民の祈りをもとに、小正月行事の現代的意味を考察すると、「集落の持続可能な発展、持続可能な農林漁業、商売のために、災害疫病、農作物の病虫害から集落を守り、暮らしのサステナビリティの保持を祖霊神に祈る」という祭事の本質が見えてきます。
 小正月行事の大事なポイントは、地域集落の住民が心をひとつにして、一連の行事に力を合わせて取り組み、この1年の地域コミュニティの安心安全と繁栄を祈ることにあると思われます。この「住民がともに祈る」ということは、21世紀の現代にあっても、地域づくり、まちづくりにおいて、忘れてはならない大事な心のありようだと思います。

 東日本大震災で被災した岩手、宮城、福島の各県の被災地の小正月行事では、「震災からの地域の復興」が切実な祈願となっていて、被災した人々が祈りを共にすることで、小正月の火祭りがお互いを元気づける場となっています。火祭りで祈ることは「野卑で蒙昧な旧幣」ではなく、民衆の心に根ざした現代的意義を持ち続けている実証です。

 政府は少子化、高齢化による社会の衰退の中で、平成26年度に「地方創生」を国家戦略として打ち出しています。平成27年度予算では、地方創生推進のため新設する歳出項目「まち・ひと・しごと創生事業費」に1兆円の予算計上を予定すると報道されていますが、小正月行事・どんど焼きを「地方創生の一大国民キャンペーン」として、取り上げてみてはどうでしょうか。
(この項:2016年4月20日更新)

○国連「持続可能な開発のための2030アジェンダ」は、日本のどんど焼きを祝福する

 2015年9月25日~27日、ニューヨーク国連本部において「国連持続可能な開発サミット」が開催され、193の加盟国によって「我々の世界を変革する:持続可能な開発のための2030アジェンダ(Transforming Our World:2030 Agenda for Sustainable Development(注参照)」が採択されました(日本からは安倍総理大臣が出席)。この2030アジェンダは「誰一人置き去りにしない(leaving no one left behind)」ことを掲げ、国際社会が2030年までに貧困を撲滅し、持続可能な開発を実現するための重要な指針です。
 (注)外務省2030アジェンダ特集サイト  http://www.mofa.go.jp/mofaj/ic/gic/page3_001387.html

 2016年は「持続可能な開発のための2030アジェンダ」にとって、キックオフの最初の行動の年にあたります。その記念すべき年に、国連の潘基文事務総長は、イランほか中東の春分元旦の新年行事「ノウルーズ」となる3月21日、「持続可能な開発のための2030アジェンダ」最初の年に関する声明を発表し、次のようにノウルーズを祝福しました。

 「持続可能な開発のための2030アジェンダ」最初の年にあたって、国連は、古代からの伝統であり、現代的な関連性がある『ノウルーズ』を祝います。ノウルーズは、よりよい未来への集団の旅に誰も置き去りにしないという国際社会の決意を強化するための機会となるものです。」

 国連の潘基文事務総長は声明の中で『すべての人々のための尊厳の生活のためのビジョン』を強調し、『私たちはノウルーズを祝うすべての人々が喜びと意味にもって祝うことができるようにしましょう。そして、世界中の人々に、ノウルーズの本質的なメッセージである希望と生命の再生を広めましょう』と語りました。
 潘事務総長が声明の中で強調した、持続可能な開発と「ノウルーズ」の現代的な関連性とは、ノウルーズのメッセージである「希望と生命の再生」という意味が、持続可能な開発の本質を示唆していることを指しています。よりよい未来への人類の旅に向けた新年の門出にあたって、ノウルーズはふさわしいものであることを強調したのです。

 国連の「持続可能な開発のための2030アジェンダ」は、人々、地球と繁栄のための行動計画です。それはまた、より大きな自由の中で普遍的平和を強化することを目指しています。国連は、あらゆる形態および次元での貧困の撲滅が、最大のグローバルな課題であり、持続可能な開発のための必須の要件であることを認識し、アジェンダを採択しました。
  さらにアジェンダは、人々と異なるコミュニティの間で文化的多様性と友情に貢献し、世代間や家族内の平和と連帯だけでなく、地域紛争における隣人との和解を促進しようとしています。

 一方、イランなど中近東の諸国では、2016年の春分の日(vernal equinox)にあたる3月20日、イラン暦ファルヴァルディーン月1日(元日)として、春の新年を盛大に祝いました。この祝祭はノウルーズ( نوروز  Nowruz=新しい日、英語ではNew Day)と呼ばれています。古代のゾロアスター教を起源として、3000年以上の伝統を有するという祝祭を今日も祝っているのは、イランほかアフガニスタン、タジキスタン、トルクメニスタン、イラク、アゼルバイジャン、トルコの国々です。
 ノウルーズは春の訪れとともに始まることから、人々は、自然と同様に、服や身の周りのものを新しくして、新年を迎えようとします。伝統的なノウルーズの風習では、人々はみんなが、喜びにあふれ、親戚に会いに行って、一緒に楽しく過ごすとされています。

 ノウルーズは人類の文化遺産としての価値も高く評価されています。国連では2009年、ノウルーズを正式にユネスコ無形文化遺産に登録しました。ユネスコは、この年にハンガリーの「ブショーヤーラーシュ」、日本の「甑島のトシドン」の2件の新年祝祭も同時に無形文化遺産に登録し、人類の「迎春」または「頌春」の新年行事に高い評価を示しました。ブショーヤーラーシュとトシドンは、冬に別れを告げ、新年を迎えるために恐ろしい形相の仮面をつけた““来訪神”が集落にやってきます。ブショーヤーラーシュは祭礼の最後に大きな木のやぐらを燃やします。焚き火を囲んで住民が新春を迎えるのは、日本のどんど焼きと類似の行事です。

   さらに国連総会は、ノウルーズが宗教や国境を越えて、さまざまな民族を団結させることにより、世界における人間的な価値の拡大を促進するとして、2010年に「ノウルーズ国際デー」を正式に承認しました。「希望と生命の再生」という、ノウルーズの基本的なメッセージを世界に拡大すべきだと国連では認識されました。それは破壊と混迷の度合いを深める中東の紛争解決への願いが込められているようです。

 デジ研の2016年国際調査では、国連の潘基文事務総長による「ノウルーズ声明」を手がかりとして、国連の2030アジェンダをノウルーズと同様に日本の小正月行事に関連付けて検討する作業を行いました。この結果、伝統的に小正月行事に込められてきた深遠なメッセージが、地球規模の現代的課題として、鮮明に浮かび上がってくることが確認できたことは、驚くべきことでした。

  デジ研の小正月どんど焼き行事の全国・国際調査の平成26(2014)年度版では、小正月行事の現代的意味を考察し、次のように記述されています。

 “小正月行事の現代的意味を考察すると、『集落の持続可能な発展、持続可能な農林漁業、商売のために、災害疫病、農作物の病虫害から集落を守り、暮らしのサステナビリティの保持を祖霊神に祈る』という祭事の本質が見えてきます。
 地域集落の住民が心をひとつにして、大正月から小正月に至る一連の行事に力を合わせて取り組み、この1年の地域コミュニティの安心安全と繁栄を祈るというのが小正月行事のいちばん大事な点だと思われます。21世紀の現代にあっても、地域づくり、まちづくりにおいて、忘れてはならない大事な心のありようだと思います。”
 

 日本の小正月行事は、期間中にさまざまな関連プログラムが連続して行われています。それらのプログラムは、その1年の人々の(1)無病息災・子孫繁栄、(2)農林・漁業など地域産業の豊穣と繁栄、(3)地域の防災と安全−という3つのテーマに沿って構成されています。
 そして、一連の小正月行事の締めくくりとして最後に「どんど焼き」が行われます。地域コミュニティを構成する人々が一堂に会し、「どんど」の火を囲んで、この1年の豊穣と健康、そして防災を祈るとともに、地域の人々のきずなを確認するのです。

 国連の2030アジェンダにならって表現すると、古来、日本では「地域社会の持続可能な開発」のために、子どもから若者、大人、古老まで地域コミュニティのあらゆる構成員が役割を果たす「コミュニティ・パートナーシップ」が不可欠であると認識されてきました。小正月の一連の行事では、子どもから年寄りまでが力を合わせて取り組むコミュニティ・パートナーシップが凝縮された形で表現されています。この行事を通じて地域の結びつきや世代を超えた人々の相互理解と交流ができています。これは民衆の叡智とも言うべきものであります。

 この具体的な表れとして、山梨県の小正月行事「道祖神祭礼」では、地域の隣保組を単位として、「氏子入り」という儀式を現在も行っている地域があります。組内の家庭で子どもが誕生したり、他所から引っ越してきた家族が組内に仲間入りしたりすると、「氏子入り」という行事を通じて、「道祖神」のもとで、正式に組内の構成員として認められるという仕組みです。
 もし、道祖神が地域(集落)の祖霊の集合体であるとするならば、この氏子入りの儀式は、祖霊神たちに見守られながら、世代から世代へとつながる「集落の持続可能性」を維持するための、息の長い営々としたコミュニティパートナーシップの仕組みとして、非常に優れた叡智ともいえるものではないでしょうか。

 山梨市日下部地域の事例では、氏子入りした子どもや大人の名前は、江戸時代末期から継承される「道祖神祭礼帳」に年月日とともに記帳され、現在まで保存されています。この道祖神祭礼帳は、地域社会を構成する人々が、コミュニティの持続可能性と生命の再生を護持した証(あかし)となっていると言えそうです。

 さらに「希望と生命の再生」の儀礼という観点から小正月行事を観察すると、全国各地で、子供たちが中心となって、どんど焼きのやぐらや小屋を作ったり、その年の「五穀豊穣」や「家内安全」を予祝するために各戸を訪問したりしています。この行事をやり遂げることで子どもたちはコミュニティの一員として成長し、その様子を大人たちが見守る姿が全国各地で共通していることは注目すべきポイントです。小正月行事で、子どもたちが主役となる理由は「子どもたちは、地域コミュニティの希望であり、生命の再生の具体的な存在」であるからです。

 以上の調査結果を要約すると、日本人は、国民的な行事として、地域社会で守ってきた小正月行事「どんど焼き」を通じて、人類の最大のグローバルな課題である「持続可能な地域社会づくり」を、民衆の祈りとして、日常生活のなかで表現し、その達成のために住民が力を合わせてきたのです。このことは、小正月行事の現代的な意義として強調しておきたいと思います。

 日本の小正月行事、そしてどんど焼きは、「持続可能な地域社会づくり」の重要な要件として、伝統的に(1)無病息災・子孫繁栄、(2)農林・漁業など地域産業の豊穣と繁栄、(3)地域の防災と安全−を住民の力を合わせて達成することを掲げてきました。このことは、国連の「持続可能な開発のための2030アジェンダ」を先取りする趣旨の先進的な行事ということができます。

 イランの新年行事「ノウルーズ」は2009年にユネスコ無形文化遺産に登録されましたが、私たちは、日本の小正月行事もノウルーズと同等以上の文化性と精神性を持っていることを理解し、祝福しなければならないと思います。

 どうやら、私たちは小正月研究の成果として、ひとつの到達点を見出したようです。日本の地域無形文化遺産は、小正月行事に限定してみると、世界の無形文化遺産と同じ根っこを共有しながら、地域の人々に守られてきたという事実です。しかし、私たちは、まだまだ多くの研究課題を抱えたままです。今後もこの調査は継続されます。
 (出典:United Nations News Centre、国連「SUSTAINABLE DEVELOPMENT KNOWLEDGE PLATFORM」特設サイトなどによる)  

【国連による「3月21日国際ノウルーズの日」制定の説明】
ノウルーズとは何ですか?なぜそれを祝うのですか?
ノウルーズ(Novruz、Navruz、Nooruz、Nevruz、Nauryz)という単語は、新しい日を意味します。そのスペルと発音は国によって異なる場合があります。
ノウルーズは春の初日を迎え、通常3月21日に発生する天文春分日に祝われます。世界中で3億人以上の人々が新年の初めを祝い、バルカン半島、黒海盆地、コーカサス、中央アジア、中東などの地域で3,000年以上にわたって祝われています。
2009年に 人類の無形文化遺産の代表リストに 多くの人々が観察した文化的伝統として記されたノウルズは、春の初日と自然の再生を記念する祖先の祭典です。それは、世代間および家族内の平和と連帯の価値、和解と交流を促進し、文化の多様性と人々や異なるコミュニティ間の友情に貢献します。
ノウルーズは、相互尊重と平和と善良さの理想に基づいて、人々のつながりを強化する上で重要な役割を果たしています。その伝統と儀式は、人間の価値の交換を通じてそれらの文明に影響を与えた東西の文明の文化的および古代の習慣を反映しています。
ノウルーズを祝うことは、自然と調和した人生の肯定、建設的な労働と再生の自然な循環との切り離せないつながりへの気づき、そして自然の生命の源に対する懇願的で敬意のある態度を意味します。
【バックグラウンド】
International Nowruz Dayは 、2010年の決議A / RES / 64/253で、この祝日を共有するいくつかの国の主導で、国連総会によって宣言されました。「平和の文化」という議題項目の下で、アフガニスタン、アゼルバイジャン、アルバニア、マケドニア旧ユーゴスラビア共和国、イラン(イスラム共和国)、インド、カザフスタン、キルギスタン、タジキスタン、トルコ、トルクメニスタンの加盟国は、決議案(A / 64 / L.30)において、「国際ノウルーズの日」と題されました。
2010年2月23日の第71回総会で、総会は、 2009年9月30日に国連教育科学文化機関 による 人類の無形文化遺産の代表リストにノウルズ が 含まれることを歓迎しました。
(この項出典:国連特設ページ https://www.un.org/en/observances/international-nowruz-day

(2016年5月7日更新)

○どんど焼きに先立ち、全国で子どもたちが招福の家庭訪問 

 伝統的な小正月行事は、どんど焼きなどの火祭が単独で行われることはありません。火祭りに先立って、一連の様々な招福の行事が何日もかけて行われます。
 その伝統は現在でも農村を中心に守られている地域が多いようです。一連の流れは、まず、火祭りの会場に五色の吹き流しや御幣を飾った御神木建てが行われれ、祭事の始まりを告げる地域があります。

 一連の行事の趣旨は、地域の家庭に「この1年の福を招く」ことにあります。招福の行事では、中学生以下小学生までの子どもたちが集落の各家庭を訪問し、戸口に立って、「福が舞い込んだ」「申せ、申せ、お祝い申せ」「家内安全」「五穀豊穣」「商売繁盛」などの「祝い言」(ほかいごと)を述べる「門付け」が行われます。家の人は、訪問した子どもたちにご祝儀の金品を渡す風習が各地で行われています。ご祝儀は、年長の中学生が「親方」となって、子どもたちに分配されています。

 小正月行事が子どもたちのための年中行事と位置づけられるようになるのは、文献的にはっきりしているのは江戸時代後期のことのようです。「年中行事大成」(文化3、1806年)によると、(正月の)十五日、大坂にては、昨日より家々注連飾りを取りて、河辺にこれを焼く。みな児童の戯れとす。田舎にては、高さ二、三間の爆竹(とんど)を作り爆(ほこら)す」とあります。
 また、江戸後期の「諸国風俗問状答」によると、「奥州白川では「町屋・農家にては、十四日晩、暁鶴の声を合図に歳徳神の飾り物を一集めに取り、十五日に一村残らず相集まり候て、子どもなど大勢集まり、焼き払い、跡を清め申し候。これを方言にて、どんど焼きといふ。城下町にては、十五日・十六日両日にどんど焼きをすることなり。年始の鏡餅を、この時どんど焼きの所にて焼き、家内洩れざるように食ふ。これ、年中の疫を払ふまじないなりといふ」とあります。
 江戸後期には、小正月の焚き火行事は「どんど焼き」と呼ばれていたこと、行事の主役は児童であり、行事の性格として「児童の戯れ行事」と受け止める社会風潮も出てきたことがうかがえます。現在のどんど焼きの原型が、この頃には固まっていたのではないかと推察できます。

 どんど焼きに先立って行われる地域内の各戸を回って行う招福・祝福行事の内容も、江戸後期には固まっていたと思われます。上記の祝い言を述べる「門付け」の他にも、子どもたちが神や精霊に仮装して福をもたらす「俵引き」、子どもたちが馬の精霊に仮装し、養蚕などの豊作予祝のために舞う「春駒」、農業の害鳥や害虫を追い払い「鳥追い」「もぐらうち」、子どもたちが集落内の家に嫁いできた新妻を訪問し、子授けや安産、子孫繁栄の祝い言を述べる「嫁つつき」「嫁祝い」などが各地で行われています。「嫁つつき」などの行事は、大人が行えば“セクハラ”として非常識な風習になってしまいますが、子どもたちが行うことで、微笑ましい子孫繁栄祈願となっているようです。

 こうした招福、予祝、子宝授け、厄払いの一連の行事を終えたあと、小正月行事の仕上げの行事として「火祭り(どんど焼き)」が行われ、正月飾りを焚き上げることで、正月気分に終わりを告げます。そして、農作業の準備が始まるのです。

 ○繭玉だんご焼きは、どんど焼きの楽しみ 

 ご神火の炎が収まったところで、繭玉だんご、餅、あるいはみかん、漁村ではスルメ、コンブ、九州ではサツマイモなどを木の枝や竹竿に巻き付けた針金の先に刺して、真っ赤になった熾(お)き火で焼いて食べることも全国各地で、ほぼ共通し行われています。
団子花
 山梨県東八代郡石和町四日市場(現在の笛吹市) 諏訪神社境内で1月14日に行われるどんど焼きの「団子花」。ももやカリンの枝に刺した紅白の繭玉だんご(2002年)

 繭玉だんごを食べる風習は、北海道から九州までほぼ全国で共通しています。養蚕が農村の重要な現金収入の生業となっていた時代には、蚕が作る繭の形に似せて米粉で作る「繭玉だんご」をご神火で焼いて食べることでことで、その1年の養蚕が豊作になるように祈願するとともに、繭玉を食べることで蚕の生命力によせて、健康を祈願したと思われます。
 全国各地で、「どんどの火で焼いた団子を食べると虫歯にならない、風をひかない」、「どんどの火にあたると、この一年を無病息災ですごすことができる」などの言い習わしが共通しています。
 都市部、あるいは養蚕が盛んでなかった地域では、切り餅や丸餅を焼いて食べているところも見られます。小正月の日には「小豆粥(あずきがゆ)」を食べて祝う風習が残る地域も見られます。
 徳島県では地域の冬の特産品であるミカンを焼いて食べる風習があり、「どんどの火でミカンを焼いて食べると風邪をひかない」とも言って食べています。東北地方の海辺の地域ではコンブ、スルメを焼いて食べる所もあります。

   どんど焼きに先立って、「繭玉だんご」をミズキ、ヤナギ、ウメなどの木の枝に刺して、自宅で「繭玉飾り」として神棚などに飾り、その一年の豊作を祈願することも全国的に行われています。類似の飾りとして「もち花」なども使われています。
 この飾り物は関東では「団子花」、岩手では「みずき団子」、鹿児島で「蚕舞(カーゴマー)」と呼ばれます。近年では飾りとして製作を簡便にするため、モナカの皮を半球に作り、枝をはさんで繭状に接着する商品も販売されています。
 北海道札幌市周辺では、色鮮やかな繭玉飾りを注連縄とともに、正月用の縁起物として飾ることが慣習になっていて、歳末になると商店で模造の繭玉、飾りのみずきの木、千両箱や招き猫などが一緒に売りだされます。これは、年の暮れの風物詩となっています。

 小正月の飾り物には、繭玉飾り、団子花のほかに「削り花」を作る地域があります。埼玉県東秩父村では、小正月の時期に神棚などに飾る縁起物として、ニワトコの木の表面を一定間隔で鎌で薄く削って花のように仕上げる削り花を飾ります。この風習は静岡県浜松市天竜区では、クルミなどの枝を小刀でそいで幾重にもひだを作り、花弁のように広げて花の形に整えた削りはないを1月半ばから約1カ月、五穀豊穣などを願って家の中に飾る風習が一部で継承されています。
 こうした小正月飾り(繭玉飾り、団子花、削り花など)は、大正月の松飾り、注連飾りと対比して考察する必要がありそうです。つまり、歴制の改定により、朔旦正月、望正月という2つの正月を祝うこととなったため、飾り物を重複しないように分けている心配りが感じられます。また、小正月行事が農耕儀礼の予祝であることから、農業の豊作を象徴する団子花、削り花になったと思われます。
 北海道では、みずきの木にさした繭玉飾りを注連縄とともに飾る風習があり、大正月飾り、小正月飾りをまとめて縁起物として飾っています。この風習は明治の開拓時代に定住した人々が、旧来の正月風習にこだわることなく、あらたな行事のかたちを作りだした様子がうかがえます。

○「どんど焼き」と書き初め、願い紙燃やし

 全国各地のどんど焼きでは、子どもたちが正月の書き初めを持ち寄って、燃え上がる「どんどの火」に投げ入れる風習が共通して行われています。その際、子どもたちは、「書き初めを神火で焼いて、高く上がると、習字が上手になる。書道の腕が上がる」と願いと祈りを込めて、書き初めを投じます。
どんど焼きの書き初め燃やし
山梨県山梨市下井尻のどんど焼き。燃え上がる火に書き初めを投じ、習字の腕が上がるように祈る

 運良く書き初めが燃えながら空中に高く舞い上がると、周囲の人々は「今年は習字がうまくなるよ」と囃し立てます。舞い上がらずにそのまま燃えてしまうことがあるので、こどもたちは何枚も書き初めを用意して、次々に炎を目掛けて投じるなど微笑ましい光景が全国で繰り広げられます。
 秋田県美郷町六郷地区の「六郷のカマクラ」は、約700年の歴史がある重要無形民俗文化財ですが、一連の小正月行事の最初に、子どもたちの書き初めの「天筆」が行われます。子どもたちは、願い事を書いた天筆を長い青竹の先につけて戸外に立てておきます。主要行事の天筆焼きは、正月の注連飾り、神符や門松とともに天筆が焼かれる、願い事を書いた紙を一斉に燃やして、願い事の成就を祈願します。
 以上の日本の小正月行事は、韓国内でも同様に「ソウォンジ(願い紙)書き込み」という類似の行事が行われています。年末から年が変わった年初まで韓国各地で行われています。ソウォンジ書き込みは小正月行事のダルジプ焼き行事まで行われ、タルジプ焼きの火でソウォンジが燃やされ、願い事の成就を祈り、日本の天筆焼きと類似の行事と言えます。

○小正月の飾り柱・飾り物 秋田、福井、愛媛、岐阜、長野、山梨に共通文化圏

 デジ研の小正月行事調査によると、秋田、長野、山梨県などでは、集落ごとに幣束、和紙飾りや五色布の吹き流しなどを取り付けた青竹の竿や長い丸太の棒を「小正月飾り柱」として立てる風習が見られます。これらの竹竿や棒は、神の依代(よりしろ)として神聖な場所であることを示し、またどんど焼きの祭場標識として用いられています。また持ち歩きのできる短いサイズのものは、どんど焼きに先立つ招福の練り歩きに用いられ、集落を祓い清める祭具としても使われています。
 これらの標識、もしくは祭具の名称は、梵天(ぼんでん、秋田県横手市)、かさんぼこ(長野県伊那地方)、大文字(でえもんじ、長野県伊那地方)、ご神木おんべ飾り(長野県松本市)、梵天竿(ぼんてんさお、山梨県都留市)、ご神木(山梨県富士五湖地域)、おやなぎさん(山梨県北杜市、甲斐市)、おやま(山梨県山梨市、甲州市)、ご神木(島根県松江市美保関町片江地区)などと呼ばれています。
 秋田県横手市の「ぼんでん」は、地元の伝承によると、江戸期に火防組が「まとい」を先頭に、旭岡山神社に無火災祈願をしたことがあり、この「まとい」の名残が、今のような大型のぼんでん奉納として受け継がれているとされています。山梨県都留市・忍野村の「ぼんてんさお」は起源が不明です。

 
 山梨県忍野村忍草の道祖神祭ご神木(2013年 梵天竿、デジ研アーカイブズより)

      
 【山梨県笛吹市春日居町の「おやま」と切り紙による「おこんぶくろ」飾り=右(2016年1月14日撮影)】

 長野県と山梨県、島根県の飾り柱は小正月火祭りの祭場にご神木として立てられること、さらにご神木飾りのデザインがほぼ類似であることが共通しています。長野、山梨では小正月行事を「道祖神祭」と呼ぶことも共通していて、両県とも周囲を高い連峰で囲まれ、閉鎖的な生活空間ですが、実際には共通の背景を持った“小正月の広域文化圏”が形成されているようです。
 島根県松江市美保関町片江地区の「とんどさん」で建てられる青竹で造られた「ご神木」が、長野、山梨のものとほぼおなじデザインであることは、島根と長野、山梨を結ぶ何らかの“失われたリンク”があることが想像されます。
 島根、長野、山梨の飾り柱・竿は、いずれも中心の柱・竿が青竹、杉の木などの違いがあるものの、柱の先端は青竹を割いて作った竹ひごに色紙を巻いたり、御幣や五色の切り紙の垂れ流しが飾り付けられます。長野県の「かさんぼこ」、山梨県の「おやなぎさん」では、竹ひごの飾りは柱の先端から丸く広がって、花が開いたように垂れ下がるため、その姿を指して「傘」や「柳」になぞらえて命名されたようです。(長野の「かさんぼこ」は地元では「傘鉾」と表記するようです)
 また、長野県と山梨県の飾り柱・竿は、どんど焼きが終わったあとに倒されて、竹ひご飾りをはずし、「火伏せ(火除け)、家内安全のお守り」として家庭に持ち帰り、1年間飾られます。1年後のどんど焼きでお焚き上げされ、役目を終わるという風習も長野、山梨で共通しています。
 以上のように、デジ研の小正月行事全国調査からは、どんど焼きに関連する全国の特別な形をした飾り柱は、遠隔地にあってもデザインが同じものがあり、共通するキーワードとして「火伏せ(火除け)」「子宝祈願」などの役割を持っていることが明らかになりました。なぜ同じデザインの飾り柱が、とびとびに点在しているのか、どのように伝播したのか、謎は深まるばかりです。

 不思議なことは、そればかりではありません。ドイツ・ケルンの精霊の宿る飾り柱「マイバウム(またはメイポール)」は、山梨などのオヤナギサン、オヤマ、ご神木と同じデザインの風習なのです。
 マイバウムのお祭りは、5月1日のメイデーの日に、ドイツの他、オーストリア、スイス、リヒテンシュタインなど、欧州の多くの国々で開催されます。マイバウムは地元の森や山から住民によって伐り出され、高さは通常18〜30メートルです。 毎年4月30日になると、地域社会が一丸となって街の広場にマイバウムを立ち上げ、木の枝、リボンや花輪、リースで飾ります。祭りの日には、マイバウムの周りで踊り、伝統的な食べ物や飲み物を楽しみます。ドイツでは「シュタルクビール」が飲まれてきました。
 こうした風習の一致は偶然なのでしょうか。山梨のご神木、マイバウムとも起源は不明のままですが、マイバウムは古代ゲルマンの異教が崇拝した“聖なる木”と考えられています。このことから、新春を飾る“神が宿る木”として日本とドイツに何らかの“失われたリンク”があることが推定されるのです。
 【日本のご神木(オヤマなど)とドイツのマイバウムの類似例】 円環を竹竿が貫く道祖神祭どんど焼きのオヤマ飾り=山梨県甲州市内

○小正月の飾り物 ヒウチ、ホウコ、サルボボ、サルボコ、オコンブクロ

 小正月行事の飾り柱には、幸運をもたらすお守りであるマスコットとして、人形やシンボルをつり下げる地域もあります。山梨県山梨市、甲州市の「おやま」では色紙で作った「おこんぶくろ」、島根県松江市美保関町片江地区の「とんどさん」では、色紙で作った袋飾りをぶらさげます。各戸の主婦が心を込めて作るのが通例です。山梨市のおこんぶくろは、色紙やカラフルな広告チラシあるいは布で小袋を作り、中に詰め物を入れます。袋の下に五色の紙の吹き流しをぶら下げ、紙を切ったあみ飾りを被せて完成です。どんど焼きが終わり、おやまが倒されて後、各家庭に持ち帰り「火伏せのお守り」「子孫繁栄のお守り」として1年間飾られます。

 長野県伊那市の小正月行事「大文字(でえもんじ)」では、木柱の先端に青笹の竹と御幣をつけ、きんちゃく、花飾りと酒だるや「天下泰平」「五穀豊穣」「道祖神」などと書いた飾り箱などと一緒に取り付けています。きんちゃくと花飾りは各戸の神棚や玄関で家のお守りとして1年間供えられることは、他地域と共通です。

 福井県勝山市の左義長、愛媛県今治市大三島町宗方の伝統行事「とんどさん」紅白や五色の房がついた三角形の「ヒウチ(火打)」袋が飾られます。火除けのお守りとされています。このヒウチと同じ形状の三角袋飾りは、山梨県都留市や富士五湖地域では「ヒイチ」として小正月の道祖神祭で飾られています。山梨、福井、愛媛のヒウチはほぼ同じ形状であり、火除けのお守りとされています。

 また山梨県都留市や富士五湖地域では、梵天竿、ご神木の飾りとして子宝を祈願するためのぬいぐるみ人形「ホウコ(這子)」という赤ちゃん人形色彩豊かな縁起物をつり下げています。
 ホウコ(這子)は、はっている赤ん坊の姿に作った縫いぐるみの人形。幼児のお守りである「形代」として身の近くに置き、けがれ、災い、凶事をこれに移し負わせるのに用いられてきました。平安朝時代の貴族の間で、天児(あまがつ)という人形を枕頭(ちんとう)に置き、幼児にふりかかる災厄を身代りとなって守る風習が起源とされます。
 江戸時代に入ると貴族階級の天児に対して、庶民の間では同じく這子を幼児の祓(はらい)の具として用いるようになり、さらに天児と這子を男女一対の人形とする立ち雛(びな)形式が生まれ、桃の節句の雛人形の根元となり、また猿子(さるこ)、さるぼぼなどの玩具に変化していきました。
 山梨県北杜市明野町の小正月行事「おやなぎさん」では、ホウコと似た形のマスコットである「さるぼこ」をぶら下げます。これは猿の赤ちゃん(山梨の方言で「ぼこ」)とされます。山梨県富士河口湖町の小正月行事「ご神木」では、同じ猿の赤ちゃん人形を「さるぼぼ」と呼んで、お守りとしてぶら下げます。愛媛県今治市大三島町宗方の「とんどさん」でも、同じように飾り物「赤いサル人形」を飾り、「不幸や難が去る」と伝えられる厄除けのお守りとして大切にしています。岐阜県飛騨高山では、猿の赤ちゃん人形を「さるぼぼ」といい、郷土玩具として販売されています。

 飛騨高山、富士河口湖の「さるぼぼ」は赤ちゃんが手足を大きく開いた形ですが、今治市の「サル」、北杜市の「さるぼこ」は手と足を縫いつけて閉じた形になっています。
 この手足を閉じた猿は庚申信仰の「くくり猿」と言われます。山梨県では「道祖神信仰」と「庚申信仰」をセットで祀る集落が多く見られます。猿は庚申信仰では神の使いとされ、手足を縫い合わせることで、行いを慎むという戒めの意味があるようです。
 これらの庚申信仰発祥の地ともいわれるのは京都市東山区の金剛寺(通称・八坂庚申堂(やさかこうしんどう))です。八坂庚申堂では手と足を閉じた形のカラフルな赤ちゃん人形「くくり猿」を願かけのために奉納する風習があります。くくり猿に願いをかけて欲をひとつ我慢すると、願いを叶えてくれるとされています。
 同じように奈良市奈良町の庚申堂では「身代わり猿」といい、家族身代わりと厄除けを願ってかざられています。家族身代わりとなって厄除けを庚申さんにお願いしているということです。
 (この項本サイトの閲覧者からの問い合わせへの回答としてまとめました。出典日本大百科全書(ニッポニカ)など。2017年2月8日更新)

○小正月行事「どんど焼き」は日本・韓国と欧州共通の国際的民俗行事

 本調査では平成26年から新たな試みとして、調査範囲を海外に拡大しました。収集したデータは、「地域、実施日、名称、場所、参加者、実施内容、趣旨」の属性別に分析し、表形式で比較しました。

 その調査結果によると、26年には新たに「どんど焼き」に関する4つのエビデンス(研究のための根拠事実)を確認しました。
【その1】
 沖縄県那覇市でどんど焼きが行われていることを確認しました。これにより、どんど焼き行事の実施状況は、最北端が北海道、最南端が沖縄県まで、日本全国の47都道府県で行われていることが明らかになりました。
【その2】
 山梨県笛吹市芦川町では、旧盆の7月14日夜、道祖神祭・どんど焼きが地域の伝統行事として行われていることを確認しました。これは正月の火祭りと盆の火祭りの背景に共通の性格があることを示すエビデンスではないかと思われます。
【その3】
 平成26年調査では韓国でも旧暦1月15日にテボルム(小正月)伝統行事を行い、日本のどんど焼きと同様に、藁や薪を積み重ねたやぐらを燃やし、1年の健康と豊穣を祈願する「タルジプ焼き」が行われていることを確認しました。
【その4】
  イタリアの新年農耕儀礼の火祭り「エピファニー・ピニャルル」では、この1年の豊穣を光の神・火の神に祈願しています。この火祭りは古代ケルト文化が起源とされますが、イギリス、アイルランドでも古代ケルトまたゲールの異教の風習を受け継ぐ「ベルテーンの火祭り」で、人々は浄化と癒しの力を持つ神聖な火によって牧畜、農作物、そして人々を守り、成長を促す儀式を行っています。この儀式では若い男女が下帯だけの裸になって、冬の終わりを祝うなど異教の祭典とされています。
 また、ハンガリーの新春祝祭「ブショーヤーラーシュ」では、住民たちがオニに似た仮面をつけたブショーと呼ばれる“来訪神”に仮装し、街の広場で巨大な焚き火を燃やして冬を追い払い、新春の到来を祝っています。スウェーデンの新春祝祭「バルボリ焼き」では、集落の住民が北欧の遅い春の到来を祝い、燃え上がる「焚き火」に、住民がこの1年の健康や幸せを祈願しています。中欧や北欧では「ヴァルプルギスの夜」と呼ばれる、迎春の火祭り行事が4月30日または5月1日に広く行われています。
 さらに、イランなど中央アジアの春分を元日とする祝祭「ノウルーズ」(古代ササン朝ペルシャ文化が起源とされる)でも住民がこの1年の健康や幸せを祈願しています。

 ◆北欧のヴァルボリ焼き火祭りの画像はこちらにあり、日本のどんど焼きと同じ光景が見られます。
http://goo.gl/APNjmO

 以上の【1】により、「どんど焼き」等の火祭り行事は日本全国47都道府県で行われていると同時に、海外調査結果【3】により、日本と韓国で、集落を単位とした小正月行事に、驚くほどの共通性があることが確認でき、小正月の火祭りである「どんど焼き」は、極東アジアで国際的な広がりのある民衆の行事であることが明らかになりました。
 さらに【4】の調査によると、欧州の火祭り行事の主旨は、地域集落の迎春、悪魔払いの火祭りとして行われています。このことは、日本のどんど焼き、韓国のタルジプ焼き、イタリアのピニャルル、イギリスのベルテーンなど欧州各地の火祭り行事は、ほぼ同じ趣旨で行われている伝統民俗行事として関連性があると見ることができます。
 どんど焼きが日本からアジア、中欧から北欧でまで世界で広く行われていることは、驚くべき事実で、「どんど焼きは世界の民衆行事」であることが明らかになりました。

 本調査により、今後の小正月火祭りに関する民俗学研究は、東アジアから北欧までを視野に入れた、世界規模での新たなステージに移行する必要があると判定できます。

○GOOGLE画像検索による世界の「どんど焼き」の相似と共時性

◆日本の小正月どんど焼きのイメージ
日本のどんど焼き

◆韓国の小正月タルジプ焼きのイメージ(満月画像は「満月の夜の火祭り」を意味している)
韓国のタルジプ焼き

◆スウェーデンの迎春ヴァルボリ焼きのイメージ
スウェーデンのヴァルボリ焼き

○日本の来訪神行事「ナマハゲ・アマハゲ」と欧州の「クランプス」、インドネシアの「オゴオゴ」は類似の国際的民衆行事

 2015年1月3日夜、山形県遊佐町では「遊佐の小正月行事」の一つとして「アマハゲ」(国の重要無形民俗文化財)が行われました。これは鬼のような形相の仮面をかぶった男衆が、悪い子をこらしめ、子どもの怠け心を戒める「来訪神(仮面、仮装神)」行事です。同様の小正月行事は、岩手県大船渡市では「スネカ」として1月15日に行われます。このアマハゲは秋田県男鹿市では「ナマハゲ」として大晦日(おおみそか)に行われています。
 また、2015年1月7日夜、福岡県久留米市の大善寺玉垂宮(たまたれぐう)で1600年の伝統を誇る小正月の火祭り「鬼夜(おによ)」が行われました。実施時期が同じで鬼がテーマの祭礼として、高い関連性と共時性があります。

 一方、山形や秋田、岩手県とは地球の裏側にある欧州のドイツ、オーストリア、イタリアなどでは2014年12月の冬至から15年1月5日のエピファニー(公現祭)にかけて、伝統的なクリスマスと新年を迎える年越し行事「クランプスの夜(12夜)」が行われました。クランプスは来訪神として鬼の姿をして、街を練り歩き、悪い子を見つけて懲らしめるという伝統行事です。クランプスは国々によって、様々な名称で呼ばれますが、エピファニーばかりでなく、1月16日ごろの聖アントニオ祭、2月の謝肉祭(カーニバル)にかけて欧州各地でおびただしい数の悪魔(オニ)の仮装来訪神行事が行われています。デジ研の国際調査では以下のような仮装来訪神行事が確認されています。
 オーストリア・エブラルンのクランプスまたはハバーガイス
 ブルガリアのクケリ(またはバブガリ)とマンマー
 ハンガリー・モハーチのブショー
 北マケドニア・ベブチャニのヴァシリチャリ
 イタリア・マモイアーダのマミュソーンネ
 イタリア・オッターナのボワズ、メルデュールズ、
 イタリア・フリウリ=ヴェネツィア・ジュリアのベファーナ
 スロベニアのスコロマチ、クレント
 スペイン・マジョルカのコレフォック
 など。詳細は別ページの「小正月行事「どんど焼き」の日本全国・国際調査集計一覧」をご参照ください。
 日本のナマハゲ・アマハゲ、スネカ、そして欧州のクランプス(独:Krampus)などのどれもが以下の4つの共通点があります。
(1)頭に角を生やした、牙のある鬼の形相の仮面をかぶり
(2)毛皮、藁蓑などふさふさしたシャギーな衣装(みの)をまとって、街を練り歩き
(3)「悪い子」を見つけて戒める
(4)冬から春へ移行する年末年始の伝統行事である

 日本と地球の裏側の欧州のそれぞれの伝統的な民俗行事について、主体の形態、行動の様子、行事の趣旨、実施時期の4点が、偶然に一致することは確率論的にはありえないことです。
 日本の「ナマハゲ」「アマハゲ」「スネカ」と欧州「クランプス」ともに、頭に角を生やし、牙を持った「鬼」であり、ふさふさした衣装を着た格好が共通していることは、たまたまというより、何か共通の北方系起源があると思われます。しかも、日本と欧州のどちらも、鬼の性格として、人々に災いをもたらすものではなく、悪魔・悪鬼払い、人々の厄祓い、悪い子、怠けている子を戒める目的で、家に「見守り」として派手にやってくることが共通しています。
 
 ここで注目したいのは、上記の「ナマハゲ」などの仮装来訪神とされる鬼が、日本古来の説話などに描かれる一般的な鬼や節分行事に現れる鬼と、様相に違いがあることです。説話や節分に現れる鬼は、頭に二本の角が生え、頭髪はちぢれ、口に牙が生え、虎の皮の腰布をつけている赤肌で裸の大男で、金棒を持った姿で描かれることが一般的です。
 ところがナマハゲなどの仮装来訪神は、2本の角と牙は共通するものの、藁蓑や毛皮などフサフサの防寒的な衣装をまとっている点が違うのです。ナマハゲなどと鬼は、明らかに発生した場所が違います。
 ざっくりと考察すると、防寒着を身に着けたナマハゲなどは北方で発生、虎の皮のパンツをはいた裸の鬼は、アジア大陸の南方で発生したようです。
 しかし、虎の皮のパンツをはいた裸の赤鬼も、民俗行事で出現する時期は立春正月の前日にあたる節分なのです。季節の変わり目に出現するという属性は、日本のナマハゲ・アマハゲ、スネカ、そして欧州のクランプスも、すべてのオニに共通しているのです。それは何故なのか。さらに調査が必要です。
 日本のナマハゲ・アマハゲ、スネカ、そして欧州のクランプスなど、上記の(1)~(4)の共通点を見る限りでは、日本と欧州のオニを結ぶ何らかの未知のコネクション、共通の起源があると思われます。しかし、なぜこのような共通した民俗行事が行われているのか、現時点では全く不明で、謎に包まれています。

 2014年調査では、古来、日本独自の地方文化と思われていた「どんど焼き」が欧州で行われている「春を迎えるための火の祭典」と同じ形式であること、「どんど焼き」の「御神木」「梵天(ぼんてん)柱」と欧州の「メイポール(5月の柱(男根)」の性格が相似のものであること、合わせてどんど焼きとメイポールの行事で、子どもたちが集落の各戸を訪問して予祝を行う「門付け」が共通して行われていることも判明しました。

 さらに2015年調査では、インドネシアのバリ島で3月20日、「サカ暦」の新年の元日ニュピを迎えるための伝統行事オゴオゴが行われていることを確認しました。人々はオゴオゴという悪霊(悪鬼)の姿をした人形を引き回して町中を練り歩いた後、町から悪魔や災いなどの厄を払い、清めるためにオゴオゴを寺院で燃やします。オゴオゴは裸の赤オニの姿をしているのが特徴です。
 翌21日のニュピ(2015年では日本の春分の日に当たる)は、バリ島のヒンドゥー教徒にとって、精神修養に専念する最も重要な日で、人々は瞑想してバリ島から悪霊が去るのを待ちます。この日、島内では火や電灯が一切使われないほか、外国人観光客も含めて、人々はいかなる活動をしてはならず、レストランや商店等も一切営業が禁止されます。

 バリ島のオゴオゴは、北欧の新春を迎える悪魔払いの行事「ヴァルプルギスの夜」とも趣旨は共通しています。ヴァルプルギスの夜には、かがり火を焚いて、生者の間を歩き回るといわれる死者と無秩序な魂を追い払います。バリ島のオゴオゴは、南国なので、さすがにシャギーな衣装は身に着けておらず、腰ミノだけの裸の鬼の姿です。しかし、オゴオゴを掲げて町中を練り歩き、最後に燃やす儀式は、集落から悪魔を追い払い、集落を浄化して、人々が「サカ暦」の新年を迎える火祭りであり、日本のどんど焼き、韓国のタルジプ焼き、スウェーデンのヴァルボリ焼きと類似の行事とみることができそうです。なぜ、世界の新年の悪魔払いでは火が燃やされるのか? 本調査では謎に包まれたままです。

 以上の調査により、東北地方の雪深い地域の独自文化であると思われていた「ナマハゲ」「アマハゲ」などがヨーロッパでも行われている「新年の子ども見守り」「豊作祈願」「新年の集落の悪魔払い」のための国際的な民衆の類似行事であることが分かりました。デジ研の小正月調査は「日本独自といわれる文化、または地方文化のルーツとは何か」について、根本から再考を求める結果となっています。
 国際調査結果からは、日本の鬼文化に関する民俗学研究はまだまだ発展途上の感がいなめません。私たちの文化のルーツはもしかしたら「一つ」なのかもしれません。

◆日本の「なまはげ」のイメージ
日本のなまはげ
(出典:Akira Kouchiyama / Wikipedia Commons)

◆ドイツの「クランプス」のイメージ
ドイツのクランプス
(出典:Horst A. Kandutsch / Wikipedia Commons)

◆インドネシア・バリの「オゴオゴ」のイメージ
インドネシアのオゴオゴ
(出典:Jack Merridew - An Ogoh-Ogoh and Balinese children in en:Ubud, Bali; March 7, 2008. / Wikipedia Commons)

世界のどんど焼き調査結果一覧表はこちらをクリック

○小正月行事の火祭り「タルジプ焼き」は韓国の国民的行事 1年の健康と豊作を祈る満月の火祭り

 平成26年調査では合わせて、韓国でも旧暦1月15日に全国各地で「テボルム(小正月、정월 대보름)伝統行事」を行い、日本のどんど焼きと同様に、満月の月の出とともに、藁や薪を積み重ねたやぐらを燃やしてご先祖様を祀り、豊作を祈る農業儀礼として「タルジプ焼き(달집태우기 )」が行われていることが確認できました。

 この日韓国では、木の実を食べてこの1年の健康を祈願する(小正月にクルミや落花生、松の実を食べるとおできができないと言われている)ほか、厄払いの獅子舞い「サジャノリ(사자희 )」など、ほぼ日本と共通の行事が行われています。日本の「梵天」と似たビョッカリッテ(볏가릿대세우기)という飾りを立てることも共通しています。また、全国各地で畑や田に火をつけ、雑草や害虫などを駆除する野焼きとして行われる「チュイブルノリ(쥐불놀이 )」「火振り」が行われています。日本では、東北地方で行われている小正月行事「鳥追い」「火振り」、九州で行われている「もぐらうち」など農作物を荒らす災いを追い払う行事と類似しています。
   ちなみに、火振り行事は英国の春の火祭りでも行われており、アイルランドで立春を祝うインボルク火祭り、イングランド・エディンバラのベルテーン火祭りでも盛大に行われていることが確認されています。

 韓国では月は女性とみなされます。地にあって万物を生み出す地母神と力を合わせ、生命を出産する力を持っており、月は豊かさの象徴とされます。それゆえに、1年の最初の満月の日は、テボルムとして、その1年の厄を払い、豊穣を祈願する神聖な日とされます。月齢によるため毎年変動しますが、2014年は2月14日の「望の日(もちのひ)」がテボルムとなりました。

 以上の調査結果により、「どんど焼き」は、日本の国民行事であるばかりでなく、日本と韓国で共通して行われている小正月の火祭り行事であり、国際的な広がりを持った東アジアの民衆の行事であることが明らかになりました。
 日韓の両国で、小正月行事の火祭りは、
(1)集落を単位とする
(2)その1年の健康や、豊作、豊漁を祈る「祈年儀礼」「予祝儀礼」の行事である
(3)歳神、先祖崇拝の行事である
(4)集落への厄災の侵入を防ぐ「防塞」の祭である
(5)火入れをするための「やぐら」は青竹を立て、わらなどを材料に円錐状に高く組み上げる
(6)祭礼の飾り柱として「梵天、ビョッカリッテ」などを立てる
-など少なくとも6つの共通点があります。これだけの共通点があれば、日本と韓国の国境を超えて、同じ背景や起源を持った小正月の同一行事と言ってよいでしょう。

 韓国では旧暦小正月の火祭りと合わせて、「満月の月見祭」が同時に行われていることも特色です。この時期の満月は月影が冴えて、清々しさを感じさせるものがあり、春の息吹とともに、人々の心に深い感動を与えるものがあります。人々は月見祭として「タルボアッター(月をみたぞー)」と叫びながらお辞儀をし、願い事をする風習になっているようです。日本の新暦による小正月行事と違って、旧暦の小正月は「迎春」「賀春」を実感させます。
 韓国では旧暦小正月は、伝統的にその年の十五夜の月が初めて浮かぶ神聖な日とされ、この日に豊作を祈願すると、大きな効果を期待できると考えられています。陰暦1月15日の「テボルム」では「農業の開始日」として、1年の豊作と集落や家族の安泰を祈り、陰暦8月15日である秋の満月の日を「チュソク(秋夕)」といって、この日に1年の収穫に感謝する日とされています。

 韓国国立民俗博物館WEBサイトの「歳時風俗」정월正月の項によると、韓国社会の伝統的な節句(節日)は、小正月(1月15日)·7月の盆(7月15日)·8月の中秋(8月15日)などがありますが、なかでも小正月は旧暦によっていた伝統的な社会において格別の意味を持っていたようです。
 古代からの農耕文化を司った陰陽思想(陰陽思想)によると、太陽は「陽」として男性に具現され、これに反して、月は「​​陰」として、女性に具現されます。したがって、月は女神 - 大地に表象され、女神は万物を生み出すジモシン(地母神、지모신)としての生産力をもたらすとされました。その年の最初の満月が上がる小正月は、豊かさの象徴的な意味として位置づけられてきたのです。
 日本でも小正月の火祭り行事は明治以前には旧暦で行われていたので、日本のどんど焼きの真実の姿は、韓国と同様に「新年で最初の満月の火祭り」または「十四夜の月の火祭り」として行われていました。
 万物を生み出すジモシン(地母神)としての月に1年の豊作と集落や家族の安泰を祈り、どんど焼きの火で、厄災を浄化しようとするのが小正月行事の本質的な趣旨ではなかったかと思われます。

○韓国の小正月行事は一年の無病息災、豊作を願う食事、遊びがいっぱい

 韓国では今でも旧正月(ソルラル)、秋夕(チュソッ)をはじめとした主要な名節(ミョンジョル)を陰暦(太陰太陽暦)で祝います。満月の日を祝うボルムナルの中でも1年の初めの満月の日(旧暦1月15日小正月の日)を大ボルム(テボルム 정월 대보름)と呼びます。この日には村ごとにテボルム伝統行事を行い、新しい1年の幸運を祈願するたくさんの行事が行われます。
 暖かな春を控えたテボルムの日、1年間の無病息災を願った食事をしたり、野外で様々な遊戯を行ったりします。農村では村の会館に集まって餅やビビムバ、果物などを一緒に食べ、ユンノリ(すごろく)で楽しく過ごす風習があり、テボルムの祝祭が終わると、人々はこれから本格的に始まる農繁期に向け準備に入ります。
 韓国の人々にとって小正月とはまず新春の満月がイメージされます。韓国では月は女性であり、女神とみなされています。地にあって万物を生み出す地母神と力を合わせ、出産する力を持っている月は豊かさの象徴でもあります。それゆえに、1年の最初の満月の日は厄を払い、1年の豊穣を祈願する神聖な日とされています。
 正月の満月を祝うデボルムナルは上元(상원、サンウォン)ともいう。上元は、道家で言う三元の一つで、三元とは、上元(1月15日)、中元(7月15日)、下元(10月15日)をいう。三元の日には天上の仙官が、人間の善悪を探るとされています。三元のなかでも最も重要で、盛大に祝うのが上元とされています。
 小正月・テボルムの伝統食
●五穀飯(오곡밥、オゴッパッ)
 旧暦1月15日の小正月に作って食べる特別料理は「サンウォンチョルシッ(上元節食)」と言われています。その中で今でも韓国の各家庭でテボルムの日によく食べられるのが、五穀飯。この日には、この1年の豊作を願って、普段食べている白米に麦、きび、豆、もち米、小豆などの5種類の穀物を入れて炊いたご飯を食べます。
●ムグンナムル(묵은나물)  五穀飯と一緒に食べるおかずが「ムグンナムル」。ゼンマイ、キキョウ、シイタケ、イワタケ、大根、モヤシ、豆モヤシ、かんぴょう、干し菜など9種の和え物をムグンナムルといいます。テボルムにムグンナムルを食べると夏バテをしないといわれています。
●五穀米の分け合い(오곡밥 나눠 먹기 / オゴッパ ナノモッキ)
 テボルムの前日の夜に5種類の穀物(米・アワ・キビ・小豆・豆)で作った五穀米を、テボルムの当日に9種類のナムル(ムグンナムル)を添えて近所の人と分け合って食べる風習があります。五穀米を分け合って食べると今年1年の運が良くなる、農作業をうまく営み、豊かな食卓になると信じられているということです。
●プロム噛み(부럼 깨기 / プロムケギ)
 テボルムの早朝に「プロム(부럼)」と呼ばれるクルミ(호두、ホドゥ)、落花生(땅콩、タンコン)、栗(밤、パム)、松の実、銀杏などの固い殻のある実木の実をカリカリと音を立てて食べます。プロム噛みをすると、今年1年間でき物や吹き出物が出ない、皮膚疾患にかかることなく健康に過ごすことができ、また歯も丈夫になるといわれています。また、豆をカリカリ食べる音で鬼を追い払う意味もあるということです。木の実は、自分の歳の数だけ食べる慣習となっていて、日本の節分の豆まきにも似ています。
   ●クィバルギ酒飲み(귀밝이술 마시기 / クィバルギスル マシギ)
 テボルムの朝には、食事の前に冷たい清酒を飲みます。クイバルギ酒は漢字で耳明酒((이명주、イミョンジュ)」と呼ばれ、クィバルギ酒を飲むと、今年1年間耳が良くなる、良い知らせだけを聞きながら過ごせるといわれています。
●ヤッシッ(薬食)
 ヤッシッとは、もち米をハチミツ、ゴマ油、しょう油で味付けし、クリやナツメ、松の実などを混ぜて炊いた甘味のあるおこわのこと。ヤッパッ(薬飯)ともいいます。
●パッチュッ(小豆粥)
韓国ではパッチュッ(小豆粥)は「冬至(トンジ)」に食べる料理ですが、テボルムにも食べる風習があります。パッチュッの小豆の赤色には鬼や悪いものを寄せ付けない効果があるといわれ、テボルムの前日に食べます。
●ポッサム(またはポンニ(福裏))
 ポッサムはテボルムの日に菊科の葉や白菜の葉、あるいは海苔でごはんを包んで食べる風習。ポッサムの包みをいくつか作り、お皿に高く積み、家を守る神にお供えしたあと食べると福が来るとされています。
●ウォンソビョン(元小餅)  テボルムの晩に月を見ながら食べるモチ入りのデザート。もち米を水で溶き、白や黄色、赤、青に色付けし、でんぷんなどといっしょにこねた餅の中に、なつめや柚子を刻んだ餡を入れた団子を作り、これを茹でて深めの鉢に盛り、その上にハチミツや砂糖水を掛けて、最後に松の実を浮かせたもの。

 小正月・テボルムの伝統風習遊び

 テボルムの日は全国各地で豊作を願って畑や田に火をつけ、雑草や害虫などを駆除する野焼きとして行われる「チュイブルノリ」や、獅子の仮面を被って練り歩く獅子舞いの「サジャノリ」、「ダルジプ焼き」などの民俗行事が行われます。テボルムの行事は多種多彩で数が多く、年中行事のなかで最も重要視されているということです。

●半月夜明かし(보름새기/コルセキ)
 テボルムの前の夜、家の灯りをつけたまま夜明かしする風習。日本では大晦日の風習として知られていますが、韓国では地方によって十五夜の夜に眠れば眉毛が白くなるとされます。家族の中に誰かが眠りに落ちると、いたずらで小麦粉などで眉を白く塗ったりします。
●洞祭(ドンジェ)
 村など集落の神様が地域を守護してくれるというマウル(마을)信仰にもとづいて、小正月になると村単位での行事として洞祭が行われます。祭官が祭堂の神前に餅、ご飯、ナムル、果物などを供え、「この一年村の人々が健康で幸福でありますようにお助け下さい」などの祭文を唱えます。
●月見祭(달맞이 소원 빌기,タルマジ)
 テボルムは1年で最初の満月が上がる日であり、この日の月見は最も重要視されています。韓国では一番最初に月を見た人に良いことがあるといわれています。タルジプ焼きの前には、月見祭として「月の火だ、月の火だ。月を燃やすぞお~」「タルボアッター(月をみたぞー)」などと叫びながらお辞儀をし、願い事をします。その後、たきぎ、わら、松の葉などを高くつみあげたタルジプを燃やし、人々は、ダルジプが燃え尽きるまで月見を楽しみます。
 農村では、一年の最初の満月テボルムに行う月見は、1年の願いを祈り、その年の収穫占いが行われます。月の光が赤ければ日照りになり、白ければ梅雨がある兆しとされています。
●タルジプ焼き(달집 태우기 / タルジプテウギ)
 小正月の「タルチッ(月の家)」を燃やす「タルチッテウギ」(タルジプテウギ)は、厄を払い福を招くといわれています。テボルムの日には、集落ごとに住民が朝から集まり、松葉や、竹、わら、松の枝を積み重ねたタルジプと呼ばれる「月の家」を製作します。各村で月見をするのに良い場所がタルジプ焼きの場所に選ばれます。住民たちは、ダルジプに願いを書いた紙(ソウォンジ)をつるしておくのが慣例です。
 月の家を建てるためのわらや松の枝は、集落の若者が各戸を回って集めます。村によっては、農楽隊が戸別訪問して、地神パッキ(地神踏み)をして家を祝福します。
 ダルジプの形状は、一般的に芯となる3つの木材を適当な間隔で立てて頂点を結合させ、屋根ふき材料として、わら、松の枝などで円錐形に囲んで作ります。タルジプの燃え方によって、その年の農作物の作柄占いが行われます。タルジプが均等に燃えればその年は豊作、タルジプが燃え崩れた方向にある村は豊年、ダルジプがよく燃えないと、その年は飢饉になるなどと言われています。
 ダルジプには青竹を入れておき、竹が燃えてはぜる爆音で邪気と悪魔を追い払うことができるとされています。火は悪いことを燃やして厄を取り除く意味があるので、ダルジプ焼きで一年の平穏と安寧を祈願します。満月が昇り、タルジプに点火されると、みんないっせいに手を合わせて願い事をするのが通例となっています。
●願い紙(소원지、ソウォンジ )
 タルジプ焼きでは、この一年の自分の願いを書き込んだソウォンジをタルジプに結びつけて燃やします。燃えながら空高く舞い上がると願いが叶うと言われています。願い紙の書き込みは新年の初日の出から小正月まで行われます。願い紙を気球につけて空高く飛ばす行事も行われています。
●穀物竿立(볏가릿대세우기 / ピョッカリッテ セウギ )
 テボルムの日には、藁や松に麦、粟、稗、小豆、きびなどの穀物を包んで長い木の枝に結びつけたあと、井戸や庭に高く立てかけ、豊作を祈ります。旧暦の正月1月15日に立てて、同じく旧暦の2月の初旬に下ろすまではそのままにしておくのが通例です。のぼりに「農者国之大本(農業は国の大本)」などと書いて掲げます。
● 虫追い野焼き・火振り(쥐불놀이 チュイブルノリ)
 チュイブルノリとは、ひもを付けた空き缶に炭を入れ、火を灯してぐるぐる回す遊び。テボルムの晩には、火のついた缶を振り回し、ねずみがいなくなって、豊作になりますようにと祈ります。テボルムの前日、畑の畝や田んぼのあぜ道に藁を置いておき、日が暮れたらそれに一斉に火をつけて燃やします。田畑の雑草を燃やすことで害虫の被害を防ごうとするもので、四方で火がごうごうと燃える様は壮観です。
● 地神踏み(지신밟기/チシンパルギ)  地神踏みとは、正月テボルムに農楽隊が演奏しながら家々を回り、その土地を踏んで土地を守る地神に祈りをささげることで家庭と村の安泰を願う祭祀。昔の人は土地を踏むと地神が喜び、その場所に住む人たちに福や豊作の恵みを与え、見守ってくれると信じていました。農楽隊が土地を踏んでくれると家主はお布施やお酒と食べ物でもてなし、感謝の気持ちを伝えます。
 村(マウル)によっては、地神踏みをするのに楽士(演奏者)と共に踊り手が仮面をつけて練り歩き仮面舞(마당、マダン)をするところもあります。
●「サジャノリ」
 獅子の仮面を被って街を練り歩く獅子舞い。厄を払い、一年の福を招きます。
●綱引き(줄다리기/チュルタリギ )
 正月テボルムの月見が終わると、男女がチームに分かれて綱引きをします。綱引きの勝敗でその1年の豊作を占い、女性チームが勝つと豊作だという言い伝えがあります。ユネスコは2015年、稲作文化圏におけるチュルタリギの伝統文化的価値を高く評価し、無形文化遺産に指定しました。
●タプキョ(踏橋)、タリパルキ(橋ふみ)
 歳の数だけタリ(橋)を踏めば、その1年間は足の病気をせず、すべての災いが追い払われるだけでなく、福も呼び寄せるといわれています。タプキョ(踏橋)は、毎年陰暦小正月1月15日前後の3日間の夜間に行なわれます。
●カンガンスルレ(강강술래 )
 カンガンスルレは韓国固有の伝統遊びで、女性が手をつないで丸く輪を作り、歌に合わせて、燃えるタルジプの周りをぐるぐる回りながら踊ります。伝統的にソルラル(旧暦1月1日)・テボルム(小正月)・端午(旧暦5月5日)、秋夕(旧暦8月15日)などの韓国の年中行事に行われ、もっとも大規模に行われるのが秋夕。稲作文化に由来するカンガンスルレは昔ながらの重要な風習で、踊りをたやすく覚えることができ、協調性・平等・友情が感じられる貴重な民俗芸術であるとして、ユネスコは2009年、無形文化遺産に登録した。
●暑さ売り(더위팔기、トウィパルギ) トウィパルギとは「売暑(メソ)」、つまり暑さを売ることです。テボルムの朝に出会った人に対し「ネ トウィ サガラ(내 더위 사가라、私の夏負けを買っていけ)」と叫ぶ風習があります。これはその年の夏負けを前もって売り払ってしまう意味があります。
  ●凧揚げ(연날리기、ヨンナルリギ)
 テボルムに行なわれる民俗遊戯として、子どもたちに人気があるのが凧揚げ。一年の災難をとばすことを願いながら、糸を切って凧を飛ばしたり、厄運を燃やすという意味でタルチッテウギでいっしょに燃やしたりします。
(この項、韓国国立博物館、韓国観光公社、ソウルナビの各WEBサイトなどによる)

○「日韓」と「中国」の小正月行事の相似と相違

 日本と韓国の正月行事は、中国の春節(しゅんせつ、中国語:春节チュンチエ)が起源とされますが、デジ研の調査では、中国と日韓の小正月行事は、かなり様相をことにしています。
 日韓と中国の小正月行事とを比べると、行事の趣旨は同じですが、実施される民俗芸能が異なっています。根本的な違いというのは、中国の小正月「元宵節」には農耕儀礼としての「火祭り」がないことです。その代わりに家々では、飾り灯籠を掲げて春の到来を祝うとともに、龍舞、獅子舞などでにぎやかに一年の無病息災を祈願し、魔除けを行う趣旨は全く同じです。

 中国では年初に正月を2度祝っています。新暦1月1日の新正月と、旧暦正月の春節です。しかし、その2つの祝日としての重みは違います。新正月は1月1日だけ休日で、簡単に済ませる一方、正月として盛大に祝うのは春節です。春節とは中国の三大節句(春節・端午節・中秋節)のひとつで、旧暦の元旦(旧正月)のこと。旧暦の大晦日から春節連休に入ります。中国各地では旧正月を迎え、獅子舞や龍舞とともに年越しを祝って花火や爆竹を打ち鳴らし、今年1年の無病息災、農村部では五穀豊穣を祈ります。
 新しい年を迎えて爆竹を鳴らす風習は、もともとは庭で火を焚いて邪気を払ったことに始まります。その風習は、古代ペルシャの「ノウルーズ」に類似しています。その後、青竹を焼くと大きな音をたてて破裂し、それが邪気を払うとされるようになり、現代の中国では青竹ではなく、火薬を用いた爆竹を鳴らすのが習俗になったようです。
 中国の旧暦新年では、爆竹を鳴らし終わると、農家では、年長者が庭に出て、暦書が示すその年の吉の方角に向かって香を焚いて礼拝し、天より再び人間界に帰ってくる竃の神や諸々の神をお迎えして、今年も神のご加護で五穀豊穣、家庭安泰であるよう祈ります。その後、広間に戻り、先祖の位牌を置く台の上にお供え物を並べ、香を焚き、礼拝して、先祖に福を賜うよう願うのが古来の風習だということです。
 中国では、旧暦の最初の月「元月」15日の満月の日を「元宵節」または「上元節」と呼んで、春の到来を慶祝するのが一般的です。元宵節の夜は、その年の最初の満月が上がり、大地に春がよみがえる晩とされます。「元宵節」には、餡入りの丸い団子「湯圓(タンユェン)」を食べ、「飾り灯籠」を家々の軒先や街頭に掲げて、龍舞、獅子舞などで春の到来を祝うのが漢朝時代からの伝統と言われます。
 韓国でも同様に上元節のテボルムに月見をしながら、餡入りの丸い団子であるウォンソビョン(元小餅)を食べます。日本では小正月のどんど焼きで丸い団子や繭の形をしたまゆ玉団子を焼いて食べます。  中国の元宵節になると、家々の門に赤い灯籠がかけられます。子どもたちは飾りつけしたちょうちんを手に提げて遊び、町の広場には灯籠の棚や牌楼(アーチ型の建造物)が建てられて、灯火が夜の街並みを彩ります。旧暦1月15日の夜になると、人々は町へと灯籠観賞に出かけます。そのため、元宵節は「灯節」(灯籠祭、ランターン・フェスティバル)とも呼ばれます。

 以上により、中国・韓国・日本の正月、小正月行事における、その1年の「無病息災」「五穀豊穣」「祖霊崇拝」の祈りが共通していることは明らかです。また、中国ではもともと新しい年を迎えて、庭で火を焚いて邪気を払う風習が爆竹鳴らしに変わり、日本、韓国では積み上げたわらなどとともに青竹を爆ぜさせながら燃やす火祭りとして現代に継承されています。悪魔払いの獅子舞(または龍舞)については、日本、韓国、中国で共通した民衆芸能として行われています。
 ただし、中国雲南省では、日本韓国と同様に農耕儀礼としての火祭りを祝う風習があります。雲南省、貴州省、四川省の彝(イ)族が、新年の平安と五穀豊穣、農業繁栄を願って開催する伝統的な火祭り「火把節(フゥオバチェ)」は、太陰暦の6月24日から6月25日(グレゴリオ暦の概ね7月末から8月)に行われます。元々はイ族の10月太陽暦の新年行事であり、1000年以上の歴史があると信じられているイ族の伝統文化の象徴であり、最も重要で壮大な祭礼とされています。火把節は「星回節」とも呼ばれ、イ族の十月太陽暦の新年祭に相当するということです。
 火祭りの概要は、村の住民が火をつけた松明を持って、広場の祭壇に集まり、世界に豊作と喜びを与えるように祈ります。松の木が積み上げられた櫓に点火されると、人々は松明を持って踊り、「疫病を燃やし、飢えを燃やし、病魔を燃やし、そして幸せな収穫の年をください」と祝福を唱え、「家の平安と五谷丰登(五穀豊穣)、6種の家畜(牛、豚、羊、馬、鶏、犬)の繁栄と農業繁栄」を祈ります。
なかでも、雲南省の楚雄イ族自治州は、新年火祭りの最も壮大な規模で行われる地域であり、2005年には「中国楚雄イ族火把節」が中国の国家級非物質(無形)文化遺産保護リストに掲載されました。

 イ族の火把節の事例を除くと、行事内容の形式的なレベルで判断すれば、中国、日本と韓国は同じ小正月行事の起源を共有していますが、日本、韓国は農耕儀礼に特化し、都市型儀礼に特化する中国とは微妙に異なる小正月文化を形成していると言えそうです。それが何故なのかについては、現時点の調査結果では不明です。

 その一方で、日本国内でも中国で旧暦正月を「春節」として盛大に祝う文化を移入し、日本の行事として定着させた動きもあります。兵庫県神戸市中央区の南京町商店街振興組合では。旧暦の正月に合わせ、1987年(昭和62年)から「春節」をアレンジし、「春節祭」として開催が始まりました。この祭典では、中国の祝い事にはかかせない龍や獅子が舞い踊り、観光客で賑わいます。1997年(平成9年)には、神戸市の地域無形民俗文化財に指定されました。つまり、大陸の文化が移入され、地域の民俗文化として定着するプロセスが明確に示されています。

 もう一つの注目すべき事例があります。秋田県では、小正月行事を旧暦で盛大に祝い、観光資源となっていることで有名ですが、その中で、仙北市西木町の「上桧木内の紙風船上げ」は、中国、台湾の旧正月(春節)にランタンを飾り、紙風船形のランタンを空高く飛ばす伝統行事と全く同様の伝統行事として行われています。
 上桧木内の紙風船上げは、2017年の旧暦小正月2月10日夜に行われ、武者絵や美人画が描かれた巨大な紙風船約100個を揚げて五穀豊穣(ほうじょう)や無病息災を祈りました。紙風船は、各自がその年への思い・願いを託し、天に声が届くようにと冬の夜空に打ち上げます。
 一方、台湾では翌日の2月11日夜、スカイランタンフェスティバル(天灯節)が北部の新北市平渓で行われました。夜空に願い事を書いた紙風船型ランタンが一斉に昇って行く様は、上桧木内の紙風船上げと同様の幻想的な光景が広がりました。

 上桧木内の紙風船上げの起源について地元仙北市役所ホームページの説明によると「この行事の始まりを書き溜めたものはありません。伝説では江戸時代の科学者である平賀源内が、銅山の技術指導に訪れた際に、熱気球の原理を応用した遊びとして伝えたとも言われています」とされていますが、なぜ秋田で台湾の天灯節と全く同様の趣旨と形式により、同様の旧暦小正月行事として行われているのかは全く不明です。<BR> (出典:人民中国インターネット版「祭りの歳時記」、 Baidu「百度百科」、仙北市ホームページなど)

○欧州各地で迎春の火祭り行事 1年の豊穣と悪霊払いを大きな焚き火に祈る

 上記の項では、「小正月・どんど焼き」と「テボルム・タルジプ焼き」が日韓で共通する小正月の火祭り行事であることを確認しました。その背景については、地理的に近隣の関係にある韓国と日本の相互の文化的影響も考えられます。古代ではヤマトと朝鮮の間は、国境をさほど意識しないで、政治的、文化的交流があったことは近年の研究で明らかになっています。その背景にある「文化の絆」についても研究の必要性があると思われます。

 しかし、平成26年度以降の本調査で、英国、ドイツやスウェーデンほか、イタリア、ハンガリー、イラン、インドなどで日本、韓国の迎春火祭り行事と類似の民俗行事が行われていることが明らかになりました。このことは、北欧で古代からやっていたことを、古代の日本人が見聞して、「おお、いいね」と真似したのでしょうか。それとも、北欧の民衆が日本でやっていたことを真似したのでしょうか。あるいは、古代には日本が終点となっていた「シルクロード」が北欧までつながっていたのでしょうか。
 ここでは古代のユーラシア大陸では東端の日本と西端の英国、北欧が農耕儀礼としての火祭りでつながっていたことに注目したいと思います。

 欧州の「英国ベルテーン火祭り」「スウェーデン・ヴァルプルギスの夜の焚き火」や「イタリア・ピニャルル」、「欧州カーニバル」をはじめとする新年新春火祭りと、日本の「どんど焼き」の相似性とは、
 「大きな焚き火を囲んで、深夜まで酒を飲み、何か食べ物を食べて、魔女に代表される悪魔を払い、この1年の豊穣、健康と春の訪れを祝う」
 という悪魔払い、豊穣と健康予祝、春の訪れを祝う-の3点に集約できそうです。
  
写真はイヴレアカーニバルのスカルリ焼き LauromによるOwn work、2008、commons.wikimedia

 現在の日本では真冬の行事となっている「どんど焼き」を明治以前の本来の旧暦小正月の行事と理解すれば、実施時期は旧暦1月14日(新暦では2月または3月に相当)に行われ、基本的な性格は「迎春・予祝」であります。しかも、日本でも「悪魔払い」は新春を迎えるための重要な儀式と考えられており、「立春」前日の「節分」(つまり立春新年における大晦日)に豆をまいてオニを追い出す風習(追儺、鬼やらい)が全国各地で行われています。
 節分では豆に悪霊を退散させる呪力があると考えられていますが、この風習は韓国の小正月行事「テボルム」においても、落花生や松の実をたべて一年の健康を祈る風習があり、落花生や木の実に病魔退散の呪力があると考えられており、類似の風習ということができます。
 ロシアの「マスレニツァ焼き」やスウェーデンの「ヴァルボリ焼き」も北国の遅い春を迎える「迎春・予祝」行事であります。両者は、季節のめぐりに対する、全く同じ民衆の暮らしのこころを反映していると言えそうです。特にマスレニツァ焼きでは、魔女の人形を焼いて悪魔払いを行っており、「ヴァルプルギスの夜の焚き火」や「ピニャルル」と類似の風習と言えます。
  日本と韓国で行われている小正月行事の一つである厄除け、害虫封じの「火振り」と類似の行事はヨーロッパでも行われています。英国エディンバラの春の火祭り「ベルテーン」の火振りは有名です。
  またピレネー山脈の アンドラ公国アンドラ・ラ・ベリャほか各地で行われている火祭り「ファレール」は、若者たちが白樺などの樹皮から作られたたいまつを持って、街の通りへ繰り出して勇壮に「火振り」を行っています。若い未婚の娘たちは、ワインと甘いペストリー(パン菓子)で松明を持った若者たちを祝福します。翌朝、人々は残り火や灰を集めてこの一年の家や家族を守る風習があります。2015年、ファレールは「ピレネー山脈の夏至の火祭り(Summer solstice fire festivals in the Pyrenees)」として、ユネスコによる人類の無形文化遺産に登録されました。
 上記のデジ研調査結果からは、私たちは「新年新春の火祭り」について、全く新しい観点からの研究手法を採用しなければならないことを物語っています。
アンドラ・ラ・ベリャの火振り
写真はアンドラ公国のアンドラ・ラ・ベリャ火祭りの“火振り”(出典アンドラ・ラ・ベリャ観光局https://www.turismeandorralavella.com/)  

○日本のこども訪問神、ドイツ「天の花嫁」、アイルランドの「ブリデオグ」は類似行事

 デジ研調査結果によると、子どもの健やかな生育を祝う新年新春行事の世界的な相似、類似性が多数見つかっています。
 日本では小正月行事として、歳徳神、田の神、七福神や獅子などの「神」や「精霊」による家内の安全や農作物の豊作の恩恵祈願(予祝)が行われます。全国各地で、小正月の火祭りに先立って、子どもたちが「神の使い」となって、集落の家々を回って、家内安全、五穀豊穣の祝福を与え、祝い金や菓子をもらう「門付け」が行われています。これらは「子どもによる小正月の訪問神」とも呼ぶことができます。
 特に「子ども訪問神」は、文化遺産としての小正月行事の本質的な精神性を担う行事であると考えられます。健やかな子どもたちの存在は、地域社会における「生命の再生」が営々として行われている証であり、今を生きる人々の日々の営みが子どもたちによって、しっかり受け継がれることにより、人々の明日への希望が生まれるのです。

   小正月行事の精神性の背景には、祖霊神信仰が根強くあるとされています。今の生活の基盤を作ってくれた祖霊へ感謝することが重要であることはもちろんですが、それと同時に明日を担う子どもたちの健やかな成長は、地域の人々にとって、さらに重要です。「祖霊に子どもたちの健やかな成長を見守ってほしい」、その切実な気持ちが、日本と欧州のオニなどに仮装した訪問神(精霊)による子ども祝福となり、さらに子どもたちが祖霊神の使いとなって、集落の家々を祝福して回る「子ども訪問神」行事に昇華されていったのではないかと考えられます。

   日本の小正月行事では、数百年の伝統の上に、祖霊への感謝、子どもたちへの希望が交錯して、過去、現在、未来へと時間がゆったりと流れていきます。持続可能な地域社会づくりとは、このような心の持ちようの中から生み出されていくものであると実感できるのが小正月行事の本来のありかたのようです。
 こうした事例として、国の重要無形民俗文化財に指定されている富山県入善町の「邑町のサイノカミ」ほか長野県、山梨県の道祖神祭、岩手県住田町の「かせどり」などがあげられます。
 従来、これらの民俗行事は、日本独自の伝統文化だと思われていました。

 しかし、デジ研の平成26年度以降の調査によると、韓国のタルジプ焼きでは、古代からの祖霊信仰をもとに女神、獅子などの「神」や「精霊」が家々を訪問し、家内の安全や農作物の豊作の恩恵祈願が行われていることが確認できました。
 さらに、アイルランドで2月1日に行われる立春火祭り「インボルク」では、少女たちが、春と作物の豊穣、癒しを象徴する女神「聖ブリジッド」の人形(ブリデオグ)を持って、隣近所を家から家へとめぐり歩いて、一年の幸せを祝福し、お金やお菓子をもらう風習があります。ブリデオグはその後1年間、“縁起物”として暖炉のそばに置いたり、壁につるしたりして保存されます。

   また、ヨーロッパ各地の春を迎える行事の五月祭(the May Festival, May day)でも、精霊の守護によって農作物が育つと考えられており、その精霊は、女王や少女のかたちで表現されています。ドイツ南西部の、バーデン=ヴュルテンベルク州ツンツィンゲンでは、五月祭の一環であるメイポールという祝祭において、12歳くらいの少女たちが、五月の女王的存在の、「天の花嫁」(ウッツフェルト ブリュットリ)に扮して、集落内を練り歩き、家々を訪問しています。お伴の少女はかごを下げ、天の花嫁の訪れを村の家々に告げ、各家でかごに乳製品や卵、果物などを受け取ります。天の花嫁は、感謝を表すと同時に、その家を祝福するのです。

 アイルランドの「ブリデオグ」、ドイツの「天の花嫁」は、日本のどんど焼きに先立ち、子どもたちが集落の家々を訪問する「祝福訪問神」行事と、ほぼ相似の行事といえます。子どもたちが春の訪れを告げて、家々を祝福して回るのです。日本の小正月行事における子どもの訪問神と同じ主旨の行事が、欧州でも行われていることは、日本の地方の伝統的な文化と思われていた民俗行事が、実はグローバルな共通の背景を持った行事だったことが分かります。

○どんど焼きの「おやなぎ」「梵天」、韓国のビョッカリッテ、北欧のメイポールの相似

 小正月行事「梵天祭」は秋田県で盛大に行われており、地元では「秋田固有の神事」とされています。しかし、本調査によりますと、類似の飾り柱は国内各地、また海外でも広く行われている事がわかりました。
 韓国で春を迎える小正月行事「タルジプ焼き」でも、日本の梵天飾りとほぼ同じデザインの「ピョッカリッテ」が広場に建てられ、豊作や1年の幸福を祈願します。そのそばでタルジプ火祭が行われます。
 北欧・中欧では、春を祝うための「メイポール」が各地で行われています。通常5月1日のメイデーに,町や村の中心の広場に色紙で飾り立てた柱を立て、その周りで住民が春の到来を祝います。
 メイポールの起源と象徴性は何世紀にもわたって民俗学者によって絶えず議論されてきましたが、決定的な答えは見つかりませんでした。しかし、スコットランドやアイルランドのメイデー(ベルテーン)では、メイポールが祭場に高々と立てられますが、これは古代ケルトからの民間伝承で、「男根を象徴するポール(竿)」と考えられているということです。
 ケルトの伝承によると、メイポールは、生命を宿す大地に挿入されます。メイポールの上部にある花の輪は女陰の象徴、あるいは肥沃な女神を表し、色とりどりのリボンで飾られます。メイデーの祭典で、人々はメイポールの周りでリボンを握り、くるくる回りながら踊ります。これは生命の螺旋と女神と男神の結合、大地と光の神の結合(union)を象徴しているということです。
 また、韓国の「ピョッカリッテ」も地母神の宿る大地に高々と立てられ、メイポールと同様の花の輪、リボンで飾られます。また、子どもたちはピョッカリッテの周りを歌を歌いながら、ぐるぐると回る風習があります。
 日本の小正月行事のどんど焼きでも、飾り柱・竿を立てて、神の依り代(よりしろ)として、その年の福を祈願します。なかでも、山梨県の道祖神祭で祭場に立てられる「ご神木」「梵天(ぼんてん)竿」、「おやなぎ」「おやま」などの飾り柱は、ドイツ・ケルンや東フリージア地方のマイバウム(5月の木)と類似であり、英国のベルテーンの「メイポール(5月の竿)」ともデザインが類似であることが確認されています。(下図参照)
 山梨の「おやなぎさん」「おやま」「梵天」では竿が上部に置いた竹ひごの円環をつき刺し、空に高々とそびえ立ちます。さらに竿には竹のひごに色紙を巻いて作ったやなぎをぶらさげ、赤い「おこんぶくろ(子袋・子宮)」や、「這子(ほうこ」という赤ちゃん人形を飾り、子授けや安産祈願が行われます。すなわち、山梨の「おやなぎさん」「おやま」などの造形風習は、男根を象徴する竿と、女陰を象徴する円環の交わりにより、空と大地の間で男女の交合から出産までのプロセスを隠喩していると考えられます。

  山梨市牧丘町のオヤマ
【山梨県山梨市牧丘町 道祖神祭のオヤマ飾り】男女のまじわりと生命再生の躍動がイメージされている

山梨市牧丘町のオコンブクロ
【山梨県山梨市牧丘町の道祖神祭 オコンブクロ】オヤマに飾るオコンブクロは子宮がイメージされているという

山梨市牧丘町の道祖神祭オカリヤ
【山梨県山梨市牧丘町 道祖神祭のオカリヤ】男性のシンボルがイメージされている
(上記写真3点はブログ「あれやこれや」から引用させていただきました。(出典:http://blog.livedoor.jp/taketake0402/、2021年2月14日閲覧)

 秋田県横手市の「ぼんでん(梵天)」は、豪華な頭飾りが特徴的な小正月行事です。約300年の歴史を誇り、毎年旧暦小正月の2月17日に旭岡山神社へ奉納されます。横手市役所ホームページの観光文化情報「横手のぼんでん」によると、梵天の構造は本体が4mの竿の先に直径90cmの円形の籠「ぼっち」を貫いて作ります。ぼっちには「さがり」とよばれる色鮮やかな布や、直径15cmほどの太い「鉢巻」が結ばれます。また、本体の上には豪華な頭飾りの玉が乗せられ、これがぼんでんの大きな特徴となっています。
 さがりは友禅、絹、羽二重などの布地で作ることが最も多く、色は白、赤、ピンク、藍など様々。昔は、子どもが丈夫に育つように、さがりの布地で作った着物を着せる風習があったということです。
 以上から推測すると、横手の「ぼんでん(梵天)」は男性器をイメージする玉飾りの竿が女性器をイメージする円形のぼっちを突き刺しているように見えます。つまり、ぼっちの周りのさがり、鉢巻は「腰巻き」であり、全体として生命の繁殖力を象徴しているようです。
  横手のぼんでん
【ぼんでんの模式図。横手市役所ホームページから引用させていただきました。(出典:https://www.city.yokote.lg.jp/kanko/page300123.html、2021年1月14日閲覧)】

  Maibaum Ostfriesland
【ドイツ北部オストフリースラントのマイバウム。北欧神話の「世界の木」あるいは生命の再生を意味する男根の象徴とみなされている。(出典:wikipedia"MAYPOLE", photofile from the Wikimedia Commons. Author Matthias Süße,9 April 2010)】

 山梨のおやなぎさん、おやまかざり、あるいは東北の梵天竿はドイツ、オーストリア、ベルギー、スウェーデン、英国など欧州各国の「メイポール」の性的シンボルのデザインと驚くほど類似しているということができます。
 ユーラシア大陸の両端に位置する韓国、そして島国の日本と欧州、そして島国の英国で類似の性的シンボルを祭る新春行事があるのは、果たして偶然なのでしょうか? 

 以上、日本、韓国、欧州の3つの「春の竿(ポール)立て」民俗行事は形態が似ているばかりでなく、その行事に込められた「農作物の豊穣と生命の繁殖」を祈る心は、驚くほどお互いに通うものがあります。欧州のメイポールと韓国のピョッカリッテ行事では、人々は柱の回りを踊りながらくるくると円舞し、春の到来を祝います。春を迎えるために、異なる国々の人々はどうして柱を立てるのでしょうか。
 その疑問に答えるカギとして、デジ研の世界調査では、少なくともアイルランド、スコットランドのメイポールと日本山梨の「おやなぎ」が、ともに飾り柱・竿が「男根と女陰の結合による性エネルギーの象徴」と考えられており、出産と繁殖の祈願をこめるための「神の依り代」であるという共通点があることが分かっています。なぜ、ユーラシア大陸の両端が、「春の竿立て」でつながっているのでしょうか。なぜ、子どもたちはメイポールの周りをくるくると歌いながらまわるのでしょうか? 私たちは「小正月行事」に潜む新たな謎を明らかにする時が来ているようです。
 以下に欧州のメイポール、ドイツのマイバウム、韓国のピョッカリッテ、日本の梵天竿、おやなぎさんのイメージをgoogleの画像検索によって比較してみました。(2021年2月閲覧)

  ◆GOOGLEによる欧州のメイポールのイメージはこちらをクリック。
北欧のメイポール

GOOGLEによるドイツのマイバウムのイメージはこちらをクリック。
ドイツのマイバウム

GOOGLEによる韓国のピョッカリッテのイメージはこちらをクリック
韓国のピョッカリッテ

GOOGLEによる日本の小正月梵天柱飾りのイメージはこちらをクリック
小正月梵天飾り
GOOGLEによる日本山梨の小正月おやなぎさんのイメージはこちらをクリック
おやなぎさん

◆ドイツ・ケルンのマイバウム(メイポール)は、日本・山梨県の「おやなぎ」「ぼんてん柱」「ご神木」と類似のデザイン
ドイツ・ケルンのマイバウム  
(左写真はドイツ・ケルンのマイバウム 出典Deutsch:Maibaum (Birke) des Poller Maigeloogs auf Marktplatz Koln-Poll.Date 5 May 2011.Author Koelner50, Hans Burgwinkel/WIKIPEDIA COMMONS。右写真は日本国山梨県忍野村忍草の道祖神祭ご神木(梵天竿)2013年1月13日(デジ研アーカイブズより)

 韓国の小正月行事ピョッカリッテでは、布などに稲・麦・大豆・小豆など様々な穀物を包んで竿につるして農家の庭先などに建てます。ピョッカリッテを立てる主な目的は、農業の豊作を祈願し、飲料水と農業用水を十分に確保するためなので、通常井戸や野原、農家の外庭と中庭、牛舎の隣りなどに立てるとされています。
 小正月になると、子供たちが夜明けに起きてピョッカリッテの周りをぐるぐる回って歌を歌いながら豊作を祈願するのが伝統的な風習とされます。

 日本のどんど焼きでは、小屋ややぐらのそばに飾り柱として、立てられる「梵天」「御神木」は、その年に豊作や福をもたらす神様の依り代となると考えられます。秋田では、梵天祭(ぼんでんさい)が小正月行事のメーンイベントとして行われています。観光行事としても位置づけられ、観光客誘致のイベントにもなっています。
 山梨県では、道祖神祭の飾り物として、県内各地で「梵天(ぼんてん)」「おやなぎ」「おやま」「ごしんぼく(神木)」などの名称で、青竹や木柱に御幣を付けて建てます。この梵天には、「オコンブクロ」という切り紙、「ホウコ(這子)」という赤ちゃん人形、「ヒイチ」という三角形の袋状の飾りなど、色彩豊かな縁起物をぶら下げています。
 山梨の「ヒイチ」は福井の「ヒウチ袋」と同じ形状であり、火除けのお守りとされています。
(この項、wikipedia、BBCnews電子版、Beltane Fire Society公式HP、韓国国立博物館HPなどによる)

○日本と韓国など東アジア5カ国では、正月の農耕儀礼として綱引きを行う  ユネスコの世界遺産登録に重大な疑問

 国連教育科学文化機関(ユネスコ)は2015年12月2日、東アジアの稲作文化圏で行われている民族遊びで、一年の豊作を祈願し、共同体の構成員間の和合と団結を図る行事「正月の綱引き」を人類の無形文化遺産に登録しました。韓国政府が韓国の小正月行事「チュルタリギ(줄다리기/綱引き)」と共通の文化をもつベトナム、フィリピン、カンボジア3カ国の政府と協力して申請し、今回の登録が決定したということです。

 ところが、デジ研の調査によると、秋田県大仙市字刈和野の小正月行事「刈和野の大綱引き」は、韓国の小正月行事「チュルタルギ」と同様に男女綱を交合させ、農耕儀礼として豊作を祈願する綱引きが行われています。この2つの行事は起源を共有する同一の行事と呼んでよいでしょう。また、旧正月元日に沖縄県竹富町黒島でも伝統行事の大綱引きが行われ、豊作豊漁を祈願するほか、全国各地で伝統行事として綱引きが行われています。(詳細は、行事データ一覧を参照)
 当然のこととして、日本の綱引きもアジアの稲作文化圏の「正月の綱引き」として、ユネスコ無形文化遺産に登録されるべきものであり、そのことを傍観している日本政府とユネスコの判断には重大な疑問が残る結果となっています。

 ユネスコは2016年12月1日、韓国済州島に伝わる「海女の文化」を無形文化遺産に登録することを決定しましたが、この海女の文化についても、日本では古来の伝統的な潜水漁法として現在も三重県鳥羽市に伝承されています。無形文化遺産の選考基準は「類(たぐい)ない価値を有する無形文化遺産が集約されていること」などとされていますので、ユネスコの選考の在り方には、学術的な考察が不足しているのではないかと思われます。

 ユネスコ無形文化遺産となった東アジア、東南アジアの「正月の綱引き」は、集落の住民が総出で、大綱を引き合い、勝敗により、その年のコメの豊凶を占ったり、地区対抗で勝った方が豊作になったりなどの言い習わしが共通に行われています。
 韓国では旧暦小正月「テボルム」の行事として、満月の月見祭をした後、陰陽思想に基いて、男女がチームに分かれてチュルタリギ(綱引き)をする風習があります。女性チームが勝つと豊作だという言い伝えや、地区対抗で行う場合は、勝った村には豊年と豊漁が訪れるだけでなく、一年間疾病にかからず無病息災になるとされています。
 綱引きに使う綱はアムジュル(雌索)とストジュル(雄索)を結合させた形となっており、アムジュルとストジュルの頭の部分は、男女の性器(陰陽)を象徴したとされています。村の人々は、このチュルタリギをすることで、心を1つにし、新しい農耕の1年に向けての決意を新たにするといわれます。また、チュルタリギを通じて、村の年長者たちは若者を村の共同体に馴染ませ、結束と団結により、働き手の意欲を向上させる意味もあるようです。綱引きは、村の人々の連携を強化させ、疎通や和合のための大きな役割を果たしているということです。

 韓国慶尚南道昌寧郡霊山面の「霊山の網引き」は国の重要無形文化財26号に指定され、広州南区の「ゴサウム綱引き遊び」は国の重要無形文化財33号に指定されている小正月行事です。これらの綱引きは村を男性と女性を象徴する東軍と西軍に分かれて競い、その年の豊凶を占います。綱引きは雌綱と雄綱の丸い輪を連結して始まり、女性である西軍が勝つと豊年になると伝えられています。

 ベトナムでは、稲作文化発祥の地とされている紅河デルタ地方のビンフック省、バクニン省、ハノイ市を中心とするホン川(紅河)デルタと北中部地方で「順調な天候や豊作の祈願または稲作の作柄を占う」ために綱引きが行われています。また、北部山岳地の少数民族、タイ族、ターイ族、ザイ族の間でも行われているということです。

 日本国内では、秋田県大仙市字刈和野の旧暦正月行事「刈和野の大綱引き」は、室町時代から500年以上の歴史がある旧暦小正月の伝統行事で、国の重要無形民俗文化財に指定されています。町内を二分し、太さ2.2mの巨大な綱を「ジョウヤサノー」の掛け声で引き合い、その年の米の相場や豊作を占います。上町が勝つと米の値段が上がり、下町が勝つと豊作になると伝えられています。
 引き合いに使われる大綱は、長さが雄綱64m、雌綱約50m、重さ各々10トンになり、国内の数ある小正月綱引き行事の中でも最大級を誇ります。陰陽思想に基づく、先端が陽(男性)の象徴である雄綱と、先端が陰(女性)の象徴である「雌綱」を連結して勝敗を競う形式は、韓国のチュルタリギと同様であり、同じ起源を共有する農耕儀礼とみてよいでしょう。

 このほか、日本国内の小正月行事で行われている綱引きには、福井県三方郡美浜町の「日向水中綱引」があります。約380年前から伝わるとされ国の選択無形民俗文化財に指定されています。
 また、神奈川県中郡大磯町の左義長(国の無形民俗文化財)で行われる「ヤンナゴッコ」綱引き、京都府相楽郡精華町の祝園(ほうその)神社「居籠(いごもり)祭の綱引き」、京都府南丹市八木町日置地区の大送神社「綱引き神事」、長崎県五島市の「ヘトマトの綱引き」、沖縄県竹富町黒島で旧暦正月行事として行われる「黒島の旧正月大綱引き」など、小正月の綱引き行事は、全国各地で住民参加により盛大に行われています。

 小正月の綱引きに関して、興味深い事例は、一年の豊作を祈願する新年の綱引き行事が、沖縄県では、竹富町黒島を除き、陰暦6~8月を中心に行われていることです。沖縄(琉球)では1700年代にはすでに綱引きが行われていたという記録があり、現在でも集落単位で行われ、100か所以上で伝承されているということです(平成16年当時)。なかでも、那覇大綱引きは、綱の長さや重さでギネス記録に掲載されるなどの一大観光行事として、地域活性化のイベントになっています。沖縄の綱の形式は、日本の他県や韓国と同様に、雄綱と雌綱を貫棒で結合する場合が多いようです。

 なぜ、一年の豊作を祈願する農耕予祝行事が、正月、新春ではなく、収穫が終わった後の旧暦夏季行事として行われるのでしょうか。既に豊凶の結果が出ているわけですから、不思議な習俗ではないかと思われます。

   沖縄県糸満市の「糸満大綱引」は平成28年9月15日、糸満ロータリー~白銀堂間の国道331号で行われ、五穀豊穣、大漁祈願、家内安全、無病息災を願い、南北に分かれて約180mの雌雄結合の綱を引き合い、この1年の実りを予祝しました。
 地元の伝承によりますと、「稲の不作と害虫に悩まされたある村の頭が、思案のあげく自分の父に教えを請いました。父の教えは『田の畦で大綱を引き、太鼓を打ち鳴らし、松明を振りかざしなさい』というものでした。その父の教えに従って一夜を騒いだところ、害虫が全滅したので毎年6月(旧暦)カシテー(新米の収穫祝いの日)には欠かさず綱を引いた」という伝承があるそうです。沖縄の綱引きは、豊年予祝と併せて害虫駆除の意図があるということです(出典:糸満市役所観光ナビなどによる)。

 沖縄県石垣市では、毎年旧暦の六月(新暦の7月から8月)、八重山の各島々では豊年祭(プール)が行われています。五穀豊穣を神に感謝するとともに来夏世(くなつゆ)の豊作、地域住民の健康祈願をする祭りです。ここでのキーワードは「来夏世」ですが、その意味は「来る夏の世」で、来年の夏のことを指しています。つまり、沖縄の豊年予祝とは、今年の収穫に感謝するとともに、「来年の豊作」を祈念するためであり、夏の行事であることに意味があることになります。このことは、正月と盆の行事が相似ていることと、深い関係があると思われます。上述の「不思議な習俗」というのは誤解でした。

 石垣市の豊年祭のうち、「石垣島四カ字豊年祭」は2日間の日程で行われ、一日目に今年の収穫に感謝する儀礼が行われ、二日目は登野城・大川・石垣・新川4集落の各字が一つの会場に集い、それぞれの旗頭が奉納され、巻踊り、獅子舞や綱引き、ツナヌミン、五穀の種子授けなどの芸能が奉納されます。
 ここで興味深いのは、夏の祭礼であるのに、獅子舞いでは全身を長いフサフサの毛で覆われた獅子が登場し、汗だくになって舞い狂います。その衣装は、明らかに南国沖縄に土着の化身ではなく、中国各地で旧暦小正月「元宵節」で行われる「獅子舞」とほぼ同じものです。起源は、はるか遠方の寒冷地からやってきた衣装と見られます。豊年祭の謎は尽きないようです。

   農耕儀礼としての綱引きですが、現代の日本国内では学校の運動会や地域の社会人運動会、体育祭の定番競技となっています。さらに綱引きは東アジアの民俗文化財であるばかりでなく、過去にはオリンピックの人気競技だった歴史もあります。1900年のパリから1920年のアントワープまで、夏季オリンピックの花形の1つだったのです。当時の国際オリンピック委員会(IOC)が五輪種目には国際的な統括組織が必要と決定。組織を持たなかった綱引きはやむなく除外されました。後に組織された国際綱引連盟(TWIF)は2002年にIOCに加盟し、競技種目として復帰を目指しているということです。
 世界のスポーツとなった綱引きですが、その背景には豊作を祈る農民の心があることは忘れてはなりません。
(この項出典:WoW!Korea、VIETJOベトナムニュース、Record China、ソウル聯合ニュース、文化庁文化遺産オンライン、石垣島検島誌.com、八重山毎日新聞、 中国Baidu百度百科、ナショナル・ジオグラフィック日本語電子版など)

【日韓の小正月・綱引きのイメージ比較】

韓国の小正月行事チュルタリギ(줄다리기)=ユネスコ無形文化遺産

日本の小正月行事綱引き
(以上2点出典google画像検索結果)

○山梨県の旧盆どんど焼きと韓国の秋夕 

 山梨県笛吹市芦川町では、旧盆の7月14日夜、道祖神祭・どんど焼きが旧盆の先祖送りの行事として行われていることが分かり、これは正月の火祭りと盆の火祭りの背景に共通の性格があるのではないかいう研究テーマとなりました。仮説準備のための考察は以下の通りです。
 日本のお盆(7月15日、8月15日)は、正月と並ぶ重要な祖霊崇拝儀礼です。本年の海外調査では、韓国で行われている「秋夕」(チュソク)では陰暦の8月15日(中秋節)に祖先祭祀や墓参をはじめとする行事が行われ、小正月行事のテボルムと並ぶ重要な祭日となっていることが分かりました。
 韓国では前後3日間が祝日であり、帰省シーズンとなります。このため、日本の盆行事と秋夕を類似する関連行事になぞらえる考え方もあります。また、韓国の秋夕で行われる「迎月(月見)」などの多くの行事は陰暦1月15日の上元節テボルムで行われる「満月の月見祭」と対の行事であると考えられています。
(この項、wikipedia等による)

○日本と欧州の訪問神は顔に墨を塗る

 日本の小正月行事では、神の使いとなる子どもや大人たちが顔を墨で黒く塗って集落の家々を訪問したり、あるいは神の使いを務める子どもたちや大人が集落の人々の顔に墨を塗って歩く「墨塗り」の行事が行われるところがあります。同様の行事が欧州のスロベニアでも行われていて、「見えない糸」でつながれているようです。しかし、なぜ人々は黒人に変身するのか、行事の趣旨はなぞに包まれています。

 熊本県山鹿市菊鹿町阿佐古(あさこ)地区の「かせいどり打ち」は、約600年前から伝わる小正月の行事ですが、小学生から中学生までの子どもたちが顔に墨を塗り合い神の使いに変身します。その後、地区の全戸を回って、真っ黒な顔で「かせいどり、どっさりお祝いなー」と言って家々を祝福して回ります。
 岩手県花巻市東和町北成島の「カラスの小正月」と「どんと祭」では、神社で正月飾りや門松などを燃やした後、地元の親子が互いの顔に墨をつけ合い、一年の無病息災を願う。地元では、「魔よけの奇祭」とされています。
 このほか、宮城県加美郡加美町の柳沢集落では、県指定無形民俗文化財「柳沢の焼け八幡」では、午前4時ごろから、さらし姿の男衆が家々を回り、お神酒を振る舞いながら家内安全を祈願します。新婚の女性の顔に、かまど墨を塗り、火伏せや家内安全などの神の加護を願うのが習わしで、「柳沢の焼け八幡」は600年の伝統があるということです。また、宮城県石巻市の大杉神社「「アンバサン」行事では、輪切りの大根の断面に塗ったすすを額や左右の頬にこすり付け、無病息災や大漁、五穀豊穣を祈ります
 さらに、島根県松江市美保関町片江地区の「墨付けとんど」などが小正月の墨塗り行事として知られます。

 一方、中央ヨーロッパのスロベニアでは、冬を追い払い、この1年の豊穣を祝福する「春の祭典」を祝うために、伝統的なマスクや衣装を着用し、顔に墨を塗った「スコロマチ(Skoromati)」または「クレント(Kurent)」が街を練り歩きます。
 スコロマチは春をもたらす「精霊」と考えられ、街の通りで女性に出会うと、彼女らの顔に墨をぬり、祝福します。なかでもスロベニア北東部プトゥイのカーニバルが有名で、プトゥイの通りや広場の周りのパレードに9カ国から2,500名以上の仮面で仮装した人々が参加する国際的なイベントに発展しているということです。
 もうひとつの新たな事象が判明しました。インドやネパールなどで行われるヒンドゥー教の春を迎える祭り「ホーリー祭」(Holi)は、インド暦第11月の満月の日の移動祝祭で(2016年は3月24日、2017年は3月13日)、午前中がクライマックスとなります。祭りの間は、知人だけでなく見知らぬ人にも色粉を塗りつけたり、色水をかけ合ったりして祝うのです。ホーリー祭はもともと豊作祈願の祭りでしたが、その後クリシュナ伝説などの各地の悪魔払いの伝説などが混ざって、町ぐるみのどんちゃん騒ぎを繰り広げます。
 ホーリー祭の特徴である色粉や色水を掛け合う習俗は、日本や欧州の墨塗りの祭事と類似しています。どうして世界の人々は祝福、厄払いをするために、他人の顔に墨や色粉をぬるのか? 謎は深まるばかりです。

 ○日本の来訪神と欧州の“来訪神”の類似に関する調査結果について

 デジ研で2016年の調査によると、ヨーロッパでは、クリスマス、または立春ごろに行われる、「カーニバル(謝肉祭)」の習俗として、仮面をつけ、フサフサの毛皮に身を包んで仮装した男たちが街を練り歩くパレードが各地で行われていることを確認しました。多くはヤギやシカ、クマに仮装することが共通しています。冬を追い払い、春の到来を告げながら悪鬼を音で追い払うるベルを身につけ、1年の豊穣を祝うという「異教の訪問神」の役割を果たしています。その調査結果からは、日本の正月、小正月に現れる「仮面、仮装の来訪神」と仮面、衣装、趣旨などがほぼ類似しています。
   日本の来訪神行事は、小正月(1月14日)に、オニあるいは七福神、獅子などに仮装したり仮面をつけたりした青年や子どもたちが家々を訪れ、祝言を述べて廻る行事で、祝儀として餅や銭をもらう風習が全国で行われています。東北地方ではナマハゲ、アマハゲなど、九州地方ではトビトビ・カセドリ・カセダウチなどさまざまな名称で呼ばれています。

   しかし、一神教であるキリスト教文化圏では仮装した人々を「神」と呼ぶことはなく、「精霊」あるいは日本でいう「異人、まれびと」、「獣人」という受け止め方がされているようです。

 カーニバルはキリスト教の「四旬節」に入る直前に祝宴(あるいはどんちゃん騒ぎ)として行われ、通常2月下旬に行われます。告解の火曜日(シュロブ・チューズデイまたはマルディグラ、パンケーキの日)を最終日とする6日間行われます。告解の火曜日の翌日が「灰色の水曜日」で、肉食などの断食や節制、ざんげなどを行う四旬節が始まるという行事日程になっています。
 カーニバルの日程は、アジアの旧暦正月行事とほぼ重なっています。これは告解火曜日が立春、春分と連動する移動祝日であるためです。2015年は2月17日、2016年は2月9日となっています。
 もともとカーニバルはキリスト教と無関係な異教の慣習に由来するといわれています。四旬節は、英語では一般的に「レント」(Lent)という語が用いられますが、この言葉はもともとゲルマン語で春を表す言葉に由来するといわれ、カーニバルには、アジアの正月、小正月行事同様に“迎春の祝祭”の意味もあると思われます。

 現時点で、ヨーロッパと日本を結ぶ仮面、仮装異人の来訪行事に関するどのようなコネクションがあるのかは不明ですが、古代のユーラシア大陸では、今日想像するよりもはるかに活発な文化交流があったことは、古代ササン朝ペルシャの遺物が奈良の正倉院に所蔵されていることからも明らかです。
 青森県には注目すべき伝承があります。日本の来訪神行事が多く存在する東北地方とヨーロッパまたは中東を結ぶコネクションとして、「ゴルゴダの丘で十字架にかけられ刑死したはずのイエス・キリストは、実は生き延びて日本に来訪し、現在の青森県新郷村で亡くなった」という“キリストの墓”伝説があります。刑死したのはキリストの兄弟で、身代わりになったというのです。何らかの古代情報の伝来が記録されていたことになりますが、真偽の程は全く不明です。(日経電子版2014/5/2付け『キリスト』ラーメンは青森・新郷村! 住民、墓守る)。

 デジ研が確認できたヨーロッパの事例では、告解火曜日のカーニバルを中心に仮面や仮装異人・精霊の来訪行事が行われているのはブルガリア、ハンガリー、オーストリア、チェコ、イタリア、スロベニア、ポルトガル、スペイン、ドイツなどの各国です。
 以上の仮面の異人のうちハンガリーの「ブショー」、オーストリアの「クランプス」はユネスコの無形文化遺産に登録されています。以下に現時点での調査の概要を示します。
 (この項出典英国「国際ビジネスタイムズ(IBTimes)」WEB版、日経電子版、wikipediaなどによる。2016年3月5日更新)  (参照サイト・ibtimes.co.uk/most-bizarre-carnival-photos-around-world-shrove-tuesday-mardi-gras-1488484)

【ブルガリアの来訪異人】
◎クケリ、バブゲリ
Kukeri(クケリ)またはbabugeri(バブゲリ)は数千年前から伝わると言われるブルガリアの古いユリウス暦により、新年を迎える伝統的儀式。儀式は元旦を中心にクリスマスとエピファニーの間に行われ、人々はヤギ、クマ、悪魔などを模した怖いマスクをつけて、毛皮の衣装など仮装し、腰につけた鐘、ベルを鳴らし、町を練り歩いて悪霊を追い払い、この1年の良好な収穫、人々の健康と子宝に恵まれるよう祈願する。
 ブルガリア南西部の町シミトリで2016年開催されるクケリ祭には全国からクケリの伝統を継承する34グループの3000人以上のが参加し、大きな観光イベントとなっている。同様の祭典は南西ブルガリアのバンスコ、ラズログでも開催される。
 (この項出典wikipediaなどによる)

【ハンガリーの来訪異人】
◎ ユネスコ無形文化遺産「ブショーヤーラーシュ・カーニバル」
 ブショーヤーラーシュのカーニバル( Busójárás Carnival )は、ハンガリー南部のモハーチ(Mohács) で行われる冬を追い払い、春の到来を祝う。通常、祝祭は2月下旬のカーニバルの季節に行われ、復活祭の日曜日、告解の火曜日(またはマルディグラ)を含む6日間行われる。イベントではブショー(Busós)と呼ばれる仮面神が街を練り歩き、民俗音楽、パレードやダンスが行われる。
 ブショーは日本のオニのような恐ろしい木製マスクと大きなふさふさの毛皮マントを身に着けた男たちが練り歩く。祭典はパレードや音楽を通じて地域のアイデンティティと多民族団結の強い感覚を作成し、地域の住民に自己表現の機会を提供する意義があるとされる。2009年にブショーヤーラーシュは、ユネスコの無形文化遺産に登録された。
 (この項出典UNESCO、wikipediaなどによる)

【オーストリアの来訪異人】
◎ ユネスコ無形文化遺産「エブラルンのクランプス」
 スティリア州エブラルンのクランプス(ÖblarnerKrampusspiel)は少なくとも200年前から伝わる仮面、仮装の異人グループによる伝統文化行事。2015年にユネスコ文化遺産に登録された。12月上旬に集落の農家を訪問し、村市場の広場でも演技が行われる。登場するのは聖ニコラス(サンタクロース)、クランプス(オニの仮面とフサフサの毛皮に身を包む)スカブ(Schab、巨大な角を持つ藁人形、穀物の精霊)、ハバーガイス(Habergeisヤギの仮面と毛皮を着た精霊)、死(骸骨の仮面と黒マントに身を包む死神)、森の精霊などが登場し、農業を襲う厄災との戦いと復活、人生の勝利などを表現するという。

【イタリアの来訪異人】
◎サルディーニャの仮面カーニバル
 サルディーニャ( Sardegna)では島の各地で四旬節に先立つカーニバルに、木製の仮面や羊などのフサフサの毛皮で仮装した人々が街を練り歩く。
 人々が仮装してパレードする慣習は、1000年以上の歴史があるとされ、サルディーニャの農耕儀礼と考えられている。暗い冬に別れを告げ、新たな収穫につながる春を祝福する機嫌取りの儀式と考えられている。仮装した異人たちは、多数のカウベルを腰の回りや背中につけて、大きな音を鳴らしながら、Oblarner練り歩く。
 仮装異人たちはカーニバルで登場するほか、1月17日の聖アントニオ・アバーテ(Saint Anthony Abate)でその年の初のお披露目があり、街の広場でたかれる多数の「焚き火」を囲んで、踊る。行事として日本の小正月行事「どんど焼き」と類似である。
 マモイアーダ(Mamoiada)のカーニバルでは仮装人を「マミュソーンネ(Mamuthones)」と呼び、1月17日の聖アントニオ・アバーテ(Saint Anthony Abate)でも登場し、マモイアーダ広場でたかれる「焚き火」を囲んで、踊りながら回る。

 オッターナ(ottana)のカーニバルでは、「ボワズ、メルデュールズ(Boes、Merdules)」という2体ペアの仮装人が街に現れる。ボワズの仮面は羊や鹿などを象徴し、メルデュールズは黒い木製仮面をつけた牛飼いを象徴していると考えられる。ボワズ、メルデュールズは街の通りで戦いを演出し、動物的本能と人間の理性の間の闘争を表す古代の儀式とされる。さらに悪魔払い、したがって人生の不幸を追い払うとも考えられている。オッターナの人々にとって、来訪異人のカーニバルは年の初めの重要な行事であり、自分たちの農文化のアイデンティティを現していると考えられているという。
 アウスティスのカーニバルではソス・コロンガノス(Sos Colonganos)が登場する。シカやイノシシなどの仮面をかぶり、仮面には木の葉で飾られる。サルディーニャの他地区ではカウベルを背負うが、アウスティスでは動物の骨を肩にぶらさげ、街を練り歩くときにはガラガラと不気味な音をたてる。
(この項出典サルデーニャのマスケラサルド公式サイトmascheresarde.com、wikipediaなどによる)

【スロベニアの来訪異人】
◎スコロマチ(Skoromati)
 スロベニアは中央ヨーロッパに位置する国で、カーニバルで冬を追い払い、この1年の豊穣を祝福する「春の祭典」(The rite of spring and fertility)を祝うために、伝統的なマスクや衣装を着用した「スコロマチ(Skoromati)」または「クレント(Kurent)」が街を練り歩きます。この祝祭はKurentovanje(クレントバンエ)とも呼ばれる。スコロマチは、14世紀前半に始まったともいわれる伝統があり、木製の仮面をつけるか、顔に墨を塗り、大きな羊の毛皮やパレードで音を鳴らすために取り付けられた大きな鐘を持つチェーンを身に着けている。
 彼らはまた、赤や緑、黄などの色鮮やかなリボン飾ったそびえ立つ帽子と重いブーツを着用する。スコロマチは街の通りで女性に出会うと、彼女らの顔に墨をぬり、祝福する。
 なかでもプトゥイのカーニバルが最も有名で、2016年には、プトゥイの通りや広場の周りのパレードに9カ国から2,500名以上の仮面で仮装した人々が参加する国際的なイベントとなり、40,000人以上の観客を集めたということです。
(この項出典wikipedia、スロベニア24ur.comなどによる)
◆ブルガリアの「クケリ(バブゲリ)」のイメージ
ブルガリアのクケリ(バブゲリ)
(出典:Kukeri in the Smolyan ethnographic museum, Bulgaria.投稿者自身による作品、作者 Свилен Енев/Wikipedia Commons)
バブゲリの詳細画像はこちら https://goo.gl/wfUw1V

◆ハンガリー・モハーチの「ブショー」のイメージ
ハンガリーの「ブショー」
(出典:Some masked Busos in Mohacs town square, February 2006.Two masked "Buso" at the Busojaras Carnival in Mohacs, Hungary.Themightyquill/Wikipedia Commons)

◆スロベニアの「スコロマチ」のイメージ
スロベニアの「スコロマチ」
(出典:Fotografija posneta na gostovanju Podgrajskih Skoromatov na Matuljih februarja 2005.投稿者自身による作品、作者B4d/Wikipedia Commons)

◆イタリア・サルディーニの「マミュソーンネ」のイメージ
イタリア・サルディーニの「マミュソーンネ」
(出典: Mamuthones durante la sfilata 2014.投稿者自身による作品.作者Prc90/Wikipedia Commons)

 ○「カセイドリ」藁の精霊に化身した“訪問神” 欧州に類似行事

 文化庁が、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産に一括登録を申請する準備をすすめている「来訪神:仮面・仮装の神々」のうち、「見島のカセドリ」は、住民が藁蓑(ワラミノ)をまとって神の使いに仮装しています。
 このワラミノをまとう形式の仮装来訪神「カセドリ」は、山形県上山市でも小正月行事として行われている。見島のカセドリは悪霊を払い、福を呼び込む。また上山のカセドリは、五穀豊穣、商売繁盛や火伏せを祈願し、両者の訪問神としての形態、使命はほぼ同一です。
 デジ研の小正月行事世界調査によると、上山の「カセドリ」と同様の“訪問神”がオーストリアのユネスコ無形文化遺産「エブラルンのクランプス(Oblarner Krampusspiel)」にスカブという精霊として存在することが判明しています。

 エブラルンのクランプスは夏と冬の戦い、農業を襲う厄災との戦いと復活、人生の勝利などをテーマとして、毎年12月に行われる伝統的な民俗行事です。登場する“訪問神”は聖ニコラス(サンタクロース)、クランプス(オニの仮面とフサフサの毛皮に身を包む)など多数の聖者、悪魔、異人、精霊ですが、このうち、巨大な角を持つ穀物の精霊・スカブ(Schab)は、全身をわらの蓑(ミノ)で包み、木の枝の角をつけます。手には木の枝のムチを持ち、打ち鳴らして暗くて寒い冬を追放します。

 日本の「見島のカセドリ」でも、藁の仮装神が手に割った青竹をもち、訪問した家庭で打ち鳴らして、悪霊を追放します。オーストリアのスカブ、日本のカセドリは、ほぼ類似の迎春行事とみることが可能です。

◆山形県上山のカセドリ 2009年開催
山形県上山市のカセドリ
(出典:11 February 2009、Flicrk photo Strange Festival "Kasedori" 2009、作者f_a_r_e_w_e_l_l /Wikipedia Commons)

◆エブラルンのスカブ (Öblarner Schab)
エブラルンのスカブ
(出典:オーストリアの無形文化遺産KRAMPUS公式サイトhttp://www.krampus.st/)

○日本のどんど焼き、韓国のタルジプ焼きの淵源は古代ペルシャの拝火行事?! 

 デジ研の調査によると、世界には春分の日を元日として祝う文化圏が存在しています。イランでは、春分の日(vernal equinox)をイラン暦ファルヴァルディーン月1日(元日)として、春の新年を祝うノウルーズ(Nowruz=New Day)が行われています。古代のゾロアスター教を起源として、この祝祭は、3000年以上の伝統を有するといわれ、「ノウルーズ」は2009年、国連のユネスコ無形文化遺産に登録され、世界の文化の多様性及び人類の創造性に対する重要な文化遺産とされています。
 ノウルーズを新年行事として共有する登録国はアフガニスタン、アゼルバイジャン、 インド、イラン、イラク、カザフスタン、キルギス、パキスタン、タジキスタン、 トルコ、 トルクメニスタン、ウズベキスタンの12か国もの多くの国々に及びます。この新年行事が多くの国々に伝播していることは、驚くべきことで、この事例では民俗文化行事は、人類の国や民族の壁を超えて共有され、民俗文化行事の根源には人類の同質性、共通性があることを証明しています。

   イランなど中央アジアの2016年春分元日「ノウルーズの祝祭」(3月20日)は、3000年以上もの前の超古代からの伝統があるとされますが、実際には紀元前六世紀頃のペルシャの予言者ゾロアスター(ツァラツストラ)を開祖とする宗教・ゾロアスター教によって、重要な祝祭として定着したとされます。ゾロアスター教は、主神アフラ・マズダの名から「マズダ教」ともいい,火を神聖視するため「拝火教」とも言われます。このため、ノウルーズでは日本のどんど焼きのように「焚き火」が重要な役割を果たしています。

 イランではノウルーズの前の「赤い水曜日のイブ」(チャハールシャンベ・スーリー chahar shanbeh suri)で、家の前かみんなが集まる街の通りで焚き火が燃やされ、人々は火の上を飛び越え、「私にあなたの美しい赤をください。私の(肌の)蒼白(痛み、病気)をもっていけ」と唱えながら、新年の到来を祝い、この1年の健康を祈願します。また、チャハールシャンベ・スーリーでは、祖霊が家々に帰って来る日でもあるとされています。

 以上の事象を表面的に観察すると、古代のササーン朝ペルシャから伝承されている、新年を祝い、1年の健康を祈願する「チャハールシャンベ・スーリー」の「拝火」の慣習や祖霊信仰が、日本の「どんど焼き」、韓国の「タルジプ焼き」などの新年新春祝祭の原型となって、数千年の時を超えて、各国の国民的行事となっている可能性があります。
 日本のどんど焼きでは、新年の年頭にあたって、火の神聖な力により地域の人々の暮らしから災厄を払い、その1年の健康と豊作を祈願します。韓国の「タルジプ焼き」でもほぼ同様です。イランの「チャハールシャンベ・スーリー」でも「新年新春の拝火と1年の健康祈願」がセットになっていて、日本のどんど焼きと行事の趣旨が一致し、影響を受けているようにみえます。

 実際に古代ペルシャと日本をつなぐ特別なコネクションが存在していたことは、歴史的な事実です。それは「シルクロード」と言われ、現在でも奈良の正倉院には古代ペルシャから日本にもたらされた文物が収蔵されています。特にササーン朝ペルシャで製作されたものといわれる「白瑠璃碗(はくるりのわん)」など多くのペルシャの工芸品が現在まで正倉院に継承され、世界的にも貴重な文化財といわれています。
 古代日本において、ペルシャから中国を経由して、韓国、日本に至る文化、文物の交流と影響のルートが存在し、古代ペルシャのノウルーズが日本の正月行事の成立に影響を与えた可能性は排除されるべきではないと思われます。

 さらに古代ペルシャと現代の欧米のクリスマス、復活祭行事の関連性に関するデータも見つかりました。ゾロアスター教では、ササーン朝時代には春分に祝われる「ノウルーズ」と秋分に祝われる「ミフラガーン」がありました。ミフラガーンは、太陽神、英雄神として崇められた「ミフル神」(ミトラ神)を祝う祭日。その信仰はミトラス教 (Mithraism) と呼ばれる密儀宗教となって、1世紀後半から4世紀半ばまでのローマ帝政期、ローマとその属州で広く信奉され、善悪二元論と終末思想が説かれました。最大のミトラス祭儀は、冬至の後で太陽の復活を祝う12月25日の祭で、キリスト教のクリスマス(降誕祭)の原型とされているのです。

 世界のキリスト教会では、イエスの復活を記念して、基本的に「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」に復活祭を祝います。2016年の復活祭はノウルーズの1週間後の3月27日となり、キリスト教において最も重要な祭礼とされています。この復活祭に先立って春を迎える祭典「カーニバル(謝肉祭、carnival)」が2月から3月にかけて、世界中で復活祭とセットとなって盛大に開催されています。
 キリスト教会では復活祭により、「イエスとともに歩む新しい日が始まる」という希望を示しているという解釈があります。新約聖書によると、死後、ガリラヤで復活したイエスは、恐れおののく弟子たちに「平安なんじらにあれ」と祝福のあいさつを行い、ともに食事をして、歩きます。
 マルコ福音書には、よみがえったイエスは「信じる者はわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語る」とあります。この「悪霊祓い」のメッセージは、ユーラシア大陸各地の新春を迎える行事や日本の小正月行事などのメッセージと全く同じと考えてよいでしょう。
 イエスの復活とは、いったい何を意味しているのでしょうか。とても興味深い謎がここにはあります。

 復活したイエスのメッセージは、日本の小正月行事のように、人々への平安、生命の再生への祝福と悪霊払いに関するものです。イエスの行いは、「日本の正月の来訪神=歳神」のように人々を祝福し、家々でともに食事をしているようでもあり、興味深いものがあります。
 さらに復活祭に先立つカーニバルでは、冬の寒さと悪魔を追い出し、生命の再生、作物の豊穣、家畜の繁殖を願って盛大な火祭りが各地で行われます。これは、日本や韓国の「どんど焼き」と類似の意味を持った行事となります。

 3000年前から伝承されるというペルシャの春分祝祭「ノウルーズ」と、キリスト教の春分関連祝祭「復活祭」、「カーニバル」、日本、韓国の「小正月行事どんど焼き」が、「立春」「春分」という共時性のもとに「希望と再生による新しい日」というメッセージを分かち合っているようです。
 (出典:2016年3月20日付けIRIBイランイスラム共和国国営放送・国際放送ラジオ日本語版、wikipedia英語版・日本語版「Nowruz」「復活祭」、宮内庁正倉院公式サイト、アメリカvox.comなどによる)
(2016年4月4日更新)

〇「謎の3周」 人々はなぜか焚き火の周りを3回まわる

 日本の小正月行事「どんど焼き」などの火祭りでは、東北などで、住民や子どもたちが焚き火などの周囲を3回まわる風習が見られます。この「焚き火3周」の風習は、トルコ、スイスの新春火祭りでも行われていることがデジ研の国際調査で明らかになりました。その理由は全く分かりません。以下に事例を示します。

  <事例1> トルコ国内各地 春の祭典ヒドレレス(ユネスコの無形文化遺産)
人々はこの一年の健康を求めるため、古い持ち物や枝を集めて燃やすヒドレレスの火を飛び越える儀式を行う。祈りとなぞなぞを言いながら、人々は少なくとも3回火を飛び越える。ヒドレレスの火にあたると、この一年は病気にならないと考えられている。
<事例2> スイス・チューリッヒ ゼクセロイテンSechseläutenのズーク焼き火祭り
 広場には薪や木の枝、わらなどを20mほどの高さに積み上げ、頂上に冬を象徴する雪だるま人形ズークが置かれる。午後6時に点火され、白馬に乗った騎士たちがチューリッヒ市の公式市歌「ゼクセロイテン行進曲」の音楽に合わせて、火の周りを3周する。
<事例3> 秋田県三種町上岩川 小正月行事「勝平鳥追い」
勝平農村公園にかがり火がたかれ、児童たちが鳥追い唄を歌い、拍子木を打ち鳴らしながら、かがり火の周囲を3周する。
<事例4> 秋田県にかほ市象潟町上郷地区 国の重要無形民俗文化財「上郷の小正月行事」(サエの神の小屋焼き/嫁つつき)
 サエの神小屋焼きが終わった後、子どもたちは「鳥追いの唄」や「サエの神の唄」を唄いながら、横岡集落の4か所のサエの神小屋の焼け跡の周りをそれぞれ3周する。
<事例5> 秋田県仙北市西木町上桧木内 小正月の伝統行事「上桧木内(かみひのきない)の紙風船上げ」
 風船は8つの集落の住民や小中学生が和紙を貼り合わせ、2015年には約100個を制作。高さは2~12m、直径3mの円筒形。会場では風船の中に火を灯し、3回に分けて打ち上げた。
<事例6> 鳥取県鳥取市気高町酒津 国の重要無形民俗文化財「酒津(さけのつ)のトンドウ」
 トンドウは松の柱を中心に竹でつくった骨組みに稲わらで覆い、縄で巻いて、円錐型に整えた高さ4・5メートルの小屋。「コリトリ」と呼ばれる集落の各家庭を清める儀式で、小学1年から中学2年までの男児が、上半身裸ではだしとなって「ワッショイ、ワッショイ」の掛け声と共に海藻を振り回しながら、トンドウの周囲を時計回りに3周する。
<事例7> 岩手県奥州市水沢区黒石町 黒石寺蘇民祭
   黒石寺の蘇民祭祭礼は「裸参り」で始まる。地元ほか全国から参加登録した男衆が瑠璃壺川に入り、「ジャッソー、ジョヤサ」の掛け声とともに水をかぶる水垢離(ごり)で身を清めたあと、本堂を参拝する荒行を3回繰り返した。続いて火が放たれたやぐらの上で男衆が気勢を上がる「柴燈木(ひたき)登り」が行われる。
<事例8> 奈良県五條市大津町 念仏寺陀々堂(だだどう)「鬼はしり」(国重要無形民俗文化財)
 太鼓や板壁が打ち鳴らされる中、高さ1.2メートル、重さ約60キロの大きなたいまつが真っ赤に燃え上がり、たいまつを左手に掲げた3匹の鬼が堂内を3周した。また、「子ども鬼はしり」でも、地域の小中学生が堂の板を棒でたたく音が鳴り響く境内で午後9時過ぎ、父と母、子の3匹の鬼が登場。重さ約60キロのたいまつを振り上げながら3回堂の縁を回った。  (2024年1月26日更新)

○小正月火祭り行事の「三毬杖(さぎちょう)起源説」は疑問が多い

 上記の全国(海外)調査の結果は、従来の「小正月火祭り行事(どんど焼き)の起源に関する諸説」について、再考を求める結果となりました。
 これまで、民俗学研究者の間で、「平安時代には行われていた正月の宮中行事である三毬杖(さぎちょう)が、小正月行事の火祭り行事・左義長の起源であり、どんど焼きとも呼ばれる」とする通説が流布されています。主要な辞典に記載されているほか、WIKIPEDIA「左義長」の項などインターネットのさまざまな記事では、“ほぼ間違いのない定説”として引用されています。
 近年の事例でも、国立国会図書館のリファレンス協同データベースに「どんど焼きについて知りたい」という質問に対して、「全国的には「佐義長」(サギチョウ)と呼ばれている、小正月の火祭り行事。トンド、ドンド、ドンドヤキ、ドンドンヤキなどとも呼ぶ」と回答し、左義長論の根拠として『日本年中行事辞典』(角川書店 1977)佐義長p219~223、『精選*日本民俗辞典』(吉川弘文館 2006)佐義長p219などを列挙しています。(2015年02月15日登録)

 しかし、デジ研の調査では、日本の「どんど焼き」と同一の趣旨、形態、実施時期の行事が、韓国で「タルジプ焼き」として行われているほか、アジア、ヨーロッパ各地で季節、年の変わり目に積み上げた木の枝やわらを燃やす火祭り行事が盛んに行われています。
 さらに日本最古の小正月火祭り行事に、1600年以上前の古墳時代からの伝統を持つ福岡県久留米市の「鬼夜(おによ)」があり、1300年以上前の飛鳥時代から続く奈良県御所市の「茅原(ちはら)の大とんど」、同じく1300年以上の伝統を誇る宮崎県延岡市の熊野神社で歳頂火(せとき)などが伝承されています。

   以上の理由により、根本的な疑問として、小正月の火祭りが平安時代の宮中行事を起源とするのか、あるいは日本固有の民俗行事であるのかどうかさえ断定できない事態となりました。

 ◎「左義長(三毬杖)起源説」の概要

 (1)「左義長(さぎちょう:三毬杖とも)」は平安時代、正月15日に行われた『吉書(きっしょ)』を焼く儀式で、打毬遊戯の道具である毬杖(きゅうじょう)を3本立てて、扇子、吉書、天皇の書き初めなどを添え、陰陽師が謡いはやしつつ焼いたことから始まる」などとされます。そして、「民間では正月14日または15日、長い竹数本を円錐形などに組み立て、正月の門松・しめかざり・書初めなどを持ち寄って焼く」などとされています。この説では、鎌倉時代に書かれたとされる徒然草第百八十段の『さぎちやうは、正月に打ちたる毬杖を、真言院より神泉苑へ出して、焼き上ぐるなり。「法成就の池にこそ」と囃すは、神泉苑の池をいふなり』の記述が根拠として引用されるのが通例です。
 (2)別説では、江戸時代の古書に、三毬杖の元々の起源は、中国にあり、正月を迎えて、災いを除くために爆竹を鳴らす風習(邪気払い、悪鬼払い)が渡来したものともいわれ、宮中で竹を3本、縄で巻いて立て、扇を吊るして焼く風習が室町時代以後始まったとされます。

 この「中国渡来説」によると、左義長の囃し言葉とされる「とうどやとうど」はまさに「唐土や唐土」と発祥地の中国を指していることになります。またどんど焼きでは、青竹のお小屋やヤグラを燃やして「ドン、ドン」と大きな音を立てることに意味があり、災いを除くために盛大に爆竹を鳴らす中国の新年(春節)の風習(悪魔払い)にならった行事と理解することができます。
 (この項、日本大百科全書、山梨県立博物館刊「やまなしの道祖神祭り」、広辞苑などによる)

 以上が「小正月火祭りは三毬杖が起源」説の概要となりますが、平安朝の宮中行事である「左義長(三毬杖)」とは別に、新年火祭り行事としては、平安時代よりさらに古い1600年以上の伝統を有する福岡県久留米市の「鬼夜」があり、同じく新年の火祭りとして、1300年以上前から続く奈良県御所市の「茅原の大とんど」などが伝承されています。
 このことから、時系列的に見ると平安の宮中行事「左義長」は、地理的に近い「茅原の大とんど」に倣った可能性の方が大だと思われます。

 平安時代の宮中吉書焼き行事については、現代の小正月火祭りで、子どもたちが「書き初め」を焼く風習の起源としては当てはまると思われます。一例では秋田県美郷町の旧正月行事「六郷のカマクラ行事」は、約700年の歴史があり、主要な行事として「天筆まつり」が行われ、この天筆は、吉書の書初めを焼くとされています。
 一方、デジ研の調査によると、韓国の小正月行事である「テボルム」では、その年最初の満月の夜に、集落ごとに藁や薪を積み重ねたタルジプ(タルチッ)と呼ばれる「月の家」に、この1年の願い事を書いた紙「ソウォンジ(願い紙)」をつるしておき(福結び)、タルジプ焼きで一緒に燃やし、願いがかなうように祈ります。このとき、タルジプの青竹が大きな音でバーンと爆ぜると、その音で邪気が追い払われるといわれます。
 また、トルコの国民の祝日となっている春の祭典「ヒドレレス」では、人々は願いを書いた紙(願い紙)を赤いリボンに結び付け、バラの木に掛けておき、願いを叶えるために一年かけておく。また、地域によっては願い紙を石でくるんで海に投げたり、川に流したりもしてます。
 台湾北部・新北市の平渓国際天灯節(スカイランタン・フェスティバル)ランタン打ち上げ大会は春節の行事として行われ、表に願い事を書いた高さ1メートル余りの紙風船型ランタン(天燈)を熱気球の要領で夜空に飛ばしています。
 そもそも論として、以上の調査結果によれば、宮中吉書焼き行事が日本独自の行事と言い切ることは困難です。小正月行事の共時性において、日本、韓国、台湾、トルコの春の祭典、火祭りにおける伝統風習として、願い紙を焼いたり、空に飛ばしたりしており、国際的な共通のルーツを持つ行事とみなければなりません。

○全国・国際調査結果から判明した「左義長・三毬杖起源説」への3つの疑問

 (疑問1)小正月行事の全国(国際)調査結果によると、小正月の火祭り行事は、日本と韓国で、それぞれ「どんど焼き」、「タルジプ焼き」の名称で、小正月の「農耕儀礼」として行われていることが判明いたしました。そればかりでなく、ユーラシア大陸の各地で新年新春を祝う火祭りが行われています。
 「どんど焼き」、「左義長」が日本独自の民俗行事と断言することは困難な事態となりました。さらにどんど焼きの起源を平安時代の宮中の「三毬杖・吉書焼き行事」としたのでは、日韓で行われている小正月火祭り行事の「農耕儀礼」としての類似性について、全く説明ができないのです。どんど焼きが関東、甲信越地方では「道祖神祭」として行われていることも、祭りの性格を複雑にしています。

 (疑問2)「小正月行事火祭り」が全国規模で実施されているにもかかわらず、「三毬杖」由来の名称とされる「左義長」が京都と近畿、北陸周辺に分布が限定されています。全国的には「どんど焼き」「とんど焼き」という名称が主流であることは何故なのか。さらに京都府内の事例でも「どんど焼き」(舞鶴)、「とんど焼き」(亀岡、南丹)と呼んでおり、左義長起源説だけでは説明ができません。
 また石川県の左義長祭は小正月の伝統行事として毎年1月15日前後の土曜、日曜、成人の日などに各地の神社で行われてますが、左義長は神社の一連の祭礼神事全体を指す言葉であり、正月飾りや書き初め、古いお札お守りを焚き上げる神事は「どんど」と呼ばれています。
 このことから推察すると、もともと「どんど焼き」の行事があり、卑俗な名称を嫌い、権威を重んじる神社が執行する祭礼全体を指す用語として、宮中起源の「左義長」が採用されたと考えるのが妥当性あります。
 しかも同じ近畿であっても京都に隣接する大阪、奈良では小正月火祭り行事を「左義長」ではなく「とんど」と呼んでいます。つまり、「小正月火祭り左義長起源説」は一部の事例に着目した特別な通説と考えなければならないようです。

 小正月行事「左義長」として、起源も由緒も明確な史料が揃っている福井県の「勝山左義長」では、祭り全体の名称が「左義長」と呼ばれています。祭りが終わり、松飾り、櫓、短冊等の後片付けも無事すんだ事を感謝する“左義長本来の神事”として、御神火の焚き上げが行われますが、この重要な火祭りの神事は「どんど焼き」と呼ばれています。つまり、福井県では左義長の本義は、どんど焼きなのです。(この項出典は勝山市公式サイト/『奇祭「勝山左義長」と勝山市文化財のご紹介』(https://www.city.katsuyama.fukui.jp/kankou/sagityo/about/about09.html )などによる)

 (疑問3)江戸時代の俳書「山の井」、「和漢三才図会」などの古書によれば、小正月の焚き火行事の行事の起源については、「唐土(とうど、中国のこと)の正月に爆竹で邪気を払う行事」であり、中国から日本に渡来した行事と考えられていました。「とんどや、はあ」などというはやし言葉が使われ、はじめのうちは行事の呼び名として「爆竹」「とんど」のほかに、宮中の三毬杖・吉書焼き行事との連想で、「さぎちょう」と呼ばれていたことが、古書に記されています。

 さらに、江戸時代初期の本格的な百科事典としてある程度の信頼性が高い「日本歳事記」(貞享5年、1688年)では、正月15日朝に門松、注連なわなどを燃やし、(青)竹を燃やして大きな音を響かせる「爆竹」が行われている行事を紹介し、起源について「定説なし」としていますが、「唐土にて除夜、元日などに爆竹することあるをまなびて、わが国には今日するならし、春の初めならば、一年の邪気を払い散らせる意なるべし」などの諸説を紹介しています。(この項出典:角川俳句大歳時記電子版など)

 以上の理由により、ユーラシア大陸各地で、日本の小正月行事として同じ形態、同じ趣旨の火祭りが行われていることが確認された以上、「どんど焼きの左義長(三毬杖)起源説」は、権威を重んじる神社と、民衆の宮中へのあこがれの心から発した俗説であると判定することが妥当だと思われます。

   本調査結果からは、小正月火祭りの「左義長起源説」をいったん保留し、これまでの民俗学の通説を根本から、つまり白紙に戻して、韓国「タルジブ焼き」や世界の新年新春火祭り行事との関連性の中で、データを基にした科学的な再検討することが求められております。その基礎となる日本国内、世界のデータは、本調査報告ですべて公開しておりますので、ご参照ください。

○では、どんど焼きの起源は何なのか? 

 まず、全国調査結果から、日本国内の小正月の火祭りとして起源と由緒が明らかで、最も古い伝統を持っている行事をみてみましょう。日本最古の小正月火祭りは、福岡県久留米市の日本三大火祭り「鬼夜(おによ)」で、1600年以上の歴史があるといわれます。国として守るべき重要無形民俗文化財で、大善寺玉垂宮(たまたれぐう)で大晦日の夜から正月7日まで行われる火祭り・鬼会(オニエ)が一連の行事の最後に行われます。
 1600年以上前の行事ということは、鬼夜は古墳時代の風習を現代に継承していることになります。現在の他地域のどんど焼きなどとの違いは、正月飾りやどんど小屋を燃やすのではなく、長さ13m、重さ1トン以上もの巨大松明(たいまつ)を大勢の若者が持ち上げて、鬼払い、悪魔払いのため、燃やしながら練り歩く点が違っています。

 鬼夜の次に古い伝統があるのが、奈良県御所市の「茅原(ちはら)の大とんど」(県無形民俗文化財)です。1300年以上前の飛鳥時代から続く小正月の伝統行事で、修験道の開祖、役行者(えんのぎょうじゃ)が建立したとされる吉祥草寺で行われます。この火祭りでも主役は巨大松明で、高さ6m、直径約3mの雌雄2体を境内に立て、毎年旧暦1月14日の満月の前夜、厄除けとして読経の中で焚き上げます。

   宮崎県延岡市須佐町の熊野神社で歳頂火(せとき)火祭りは無病息災や五穀豊穣を祈願する旧暦小正月の伝統火祭り行事です。およそ1300年の歴史があるとされます。旧暦の一年の最後の日(1月14日)の夜、井桁に組まれた大きな生木に、神殿で起した神火で点火します。この神火で一切の厄を焼き払い、健康と五穀豊穣を願いながら、新しい年小正月(1月15日)を迎えるのです。古代の「望正月」の慣習を受け継ぐ伝統行事と考えられます。

 宮崎県の歳頂火火祭りの事例で明らかなように、古墳時代、飛鳥時代の元日は、前述の「望正月」を祝っていた時代ですので、本来の正月の火祭りとは、「満月の火祭り」であり、大松明を燃やして、火の呪力によって鬼払い、悪魔払い、厄除けが行われていたようです。
 その後の改暦で朔旦正月を祝うようになると、由緒ある望正月を廃止することもできず、2つの正月を祝うことに当初は大混乱があったものと思われます。しかし、朔旦正月で迎えた歳徳神・年神を、望正月の焚き火で空に送り返すという「みなしの解釈」が生まれ、民衆の知恵により、めでたく両者が共存できるようになったのではないかと考察いたします。
 小正月「どんど焼き」の火祭りは、本来は鬼払い(悪魔払い)の火であったわけですから、その火で鬼や悪魔を払い、一緒に歳神様を空に送ったのでは非常に矛盾した行為で、非常にまずいことになります。しかし、朔旦、望の正月を2度も祝うことの矛盾を昇華して、混乱を回避することの方が重要だったのではないでしょうか。
 悪魔払いの儀式は、節分年越し(立春新年の前日)の行事である追儺(ついな)として風習が残り、ここにも八方の神事を立てて整合させる民衆の知恵が感じられます。

 日本のどんど焼きの起源は、調査結果を単純に評価すると、古代の伝統を継承する久留米市の「鬼夜」、奈良の「茅原の大とんど」、宮崎の「歳頂火」に始まると言わざるを得ません。特に、大阪など関西で広く行われている「とんど」焼きの起源は、「さぎちょう」ではなく、飛鳥時代から続く奈良県「茅原の大とんど」にほぼ間違いないと推測されます。
 宮中の遊戯儀礼である三毬杖は、平安時代以降の風習とされていますので、時系列でみると、小正月火祭りの左義長起源説は、成り立ちません。
 むしろ、「宮中の三毬杖の起源は、茅原の大とんどに倣ったものであり、3本の毬杖あるいは青竹をとんどの松明のように立てて、吉書を燃やした」とみた方が自然ではないかと思われます。
 江戸時代の古書には、小正月の火祭りの起源は「唐土(とうど)の爆竹」が日本に伝来したものとされ、江戸前中期には「爆竹」または「とんど」、「さぎちょう」は呼ばれていたことが記されていることからも上記の説明は補強されます。
 しかし、茅原の大とんども現在では公式には「左義長行事」と言われています。また、宮中行事の三毬杖が、どうして「左義長」に言い換えられているのかも不明です。この謎だらけの左義長起源説の諸問題については、さらに調査が必要です。
 起源の問題はそれだけにとどまりません。そもそも、小正月行事自体が、火祭りだけではなく、獅子舞、繭玉飾り、来訪神などのさまざまな招福・予祝行事が複合した「集落農耕儀礼」であり、一連の子どもと大人の世代交流・青少年育成行事であり、宮中で行われた貴族の正月遊びを起源と主張するのは無理があります。むしろ、宮中と民間のたき火行事は共通の起源があり、それぞれ独自に発展していったとみることができます。

 
 さらに考察を深めれば、ユーラシア大陸全域で行われている新年、新春を迎える火祭り行事との関連は全く不明のままです。隣国でありながら、韓国のテボルム・タルジプ焼きは、日本のどんど焼きと類似の行事内容で実施されているのはなぜなのか、その調査も進んでおりません。謎は謎を呼ぶばかりです。

国家権力に抵抗するため「どんど焼き」を「左義長」とすり替えた可能性

 以上の歴史的経過のなかで、小正月の火祭り行事は宮中で行われた左義長が起源である、という通説が流布した理由について、山梨県立博物館が平成30年1月に開催した「よみがえる甲府道祖神祭り」の資料をもとに推測すると、江戸幕府、明治政府と続いたどんど焼き行事に対する国家権力による取り締まりが影響しているのではないかと思われます。
 江戸時代には、甲府道祖神祭りの例では、奢侈の禁止やどんど焼による火災の危険、また若者による祝儀の強要、性風俗の乱れなどを理由に取り締まりが行われました。民衆側では、幕府に対抗するため、どんど焼きの起源をことさら「宮中で行われている左義長神事である」と言い張り、弾圧を逃れようとしてきたのではないか、と考えられます。

 山梨県立博物館が2018年1月に開催した「よみがえる! 甲府道祖神祭り」展では、山梨県令が民俗信仰である道祖神祭を廃絶させ、祭神の石祠を撤去する弾圧を行ったことが明らかにされています。
 こうした取り締まりにより、甲府の道祖神祭は消滅してしまいました。政府による国家神道の樹立に並行して、廃仏毀釈や土俗信仰の取り締まりが行われたためです。国民の宗教的崇拝の対象を天皇に帰一させ、祭政一致の国家形成を図るのが狙いでした。
 山梨県の農村部では、取り締まりは比較的緩やかだったとみえて、道祖神祭そのものは現在まで存続していますが、仮説として、土俗信仰との非難から逃れるため、道祖神祭は左義長であり、祭神は「猿田彦(サルタヒコ)命」「天宇受売(アメノウズメ)命」であると、国家神道が容認する祭神を唱えることで、政府の取り締まりを逃れたのではないかとも考えられます。  こうした歴史的経過のなかで、明治以降に小正月の火祭り行事は宮中で行われた左義長が起源である、という通説が流布した理由について推測すると、民衆側では、政府の取り締まりに対抗するため、どんど焼きの起源をことさら「宮中で行われている左義長行事である」と言い張ったのではないかと推測されます。

 全国調査結果では、近畿から離れた神奈川県大磯町に「左義長」の名前を使う例がありますが、これは明治初期、地元に住む政府の権力者が「セエトバレエ」「ドンドヤキ」など民衆が使う野卑な行事名を嫌って使い始めたといわれます。つまり大磯では、国家神道樹立の政府方針に沿って、土俗信仰の行事ではなく、「左義長」を名乗ることにより、あたかも宮中行事の伝統に連なることで、土俗行事の存続を図った可能性があります。
 大磯町役場の観光情報サイト「イソタビドットコム」によると、大磯の左義長はもともとセエノカミサン(道祖神)の火祭りで、セエトバレエ、ドンドヤキなどとも呼ばれていました。しかし、明治時代後期に大磯に居を構えた初代内閣総理大臣伊藤博文の側近によって「左義長」の名が使われ始めたという伝承があります。昭和53年に「大磯の左義長」として、神奈川県無形民俗文化財に指定されたために、左義長の名称が一般に普及したとされます。

 この大磯の事例から類推しますと、「左義長」の名称を使う地域が京都、滋賀、北陸と狭い範囲に限定されていることから、中世期に小正月の火祭り行事が社会に広まる当初、権力者たちが農耕儀礼を野卑な名前である「どんど」や「とんど」と呼ぶことを嫌って、由緒ある行事名として宮中の年初行事「さぎちょう」を使い始めた可能性が濃厚です。

 現在、全国の小正月火祭り行事は、どんど焼きと呼ぶのが大勢を占めていますが、歴史的には「とんど」が古名であり、江戸時代末期に「どんど」という呼び名が一般化したという経過になります。それ以上の具体的な小正月火祭りの起源については、さらに調査が必要です。
 愛媛県新居浜市の「とうどおくり」では「蓬莱山左義長」と書かれた多くののぼりを扇型に立てて、一緒に燃やしていることなどから、行事の起源に中国伝来の「蓬莱山信仰」と「左義長」が何らかの関係を持って存在し、宮中の「三毬杖行事」と混同され、伝承されたのではないかと考察することができます。
 日本で中国を呼んだ古い名前が「唐土(とうど)」ですから、本来の小正月火祭り行事の名称は中国(あるいは大陸方面)から渡来した「とうど」焼きであり、これが「とんど焼き」、さらに神火の勢い良く“どんどん”燃える様を例えて「どんど焼き」に撥音便変化した可能性があります。

 また本調査では、韓国で、日本の小正月火祭り行事とほとんど同じ内容の「テボルム」「タルジプ焼き」が行われていることは、上記の調査結果のとおりであり、「とんど焼き」「どんど焼き」の起源が「唐土(とうど)」(朝鮮を経由して)渡来であるからとしてもおかしくないと思われます。

○どんど焼きは江戸期の集落形成、農業発展とともに全国伝播

 全国調査の結果から、どんど焼きが各地の旧集落を単位として行われていることが明らかになりました。そして、どんど焼きが全国で広まった時期について、各集落の「どんど焼きの伝統がいつ始まったのか」に関する伝承調査結果から判定できます。
 それによると、全国でどんど焼きが広がっていくのは、江戸初期に小正月火祭りとして、祭礼の伝播が始まり、江戸期の中期から後期にかけて現在の集落を単位とする原型が固まったとみて良さそうです。
 戦国時代の終了とともに江戸時代になって世が治まり、現在の47都道府県の基盤となる幕藩統治体制が固まった時期に個別集落の境界が固まります。そして、江戸期の新田開発により現在の集落の骨格ができた頃、それはおおむね江戸中期から後期と重なっています。

 江戸期に、現在の集落の境界が固まったことの意味は、日本の民俗文化の形成を考える上でとても重要です。その意味とは人々の集落への定住の始まりと、生業(なりわい)としての本格的な農業生産の始まりです。特に昭和時代初期までの日本の農業は稲作を主体とし、換金作物として養蚕に取り組むことが一般的でした。稲作では人々は農作業ならびに関連する水利を共同作業で行わなければなりませんでした。「水稲作」は田への引水を個人が勝手にすることはできず、集落の農民全員の調整のもとに行われます。つまり、江戸期の集落への定住と同時に、人々は稲作を主体とする利害共同体として生きていくこととなったのです。

 こうして、「五穀豊穣」はむらの人々にとって最も重要な共通の願いとなりました。江戸時代の旧暦の暮らしでは、国民の大部分が農民であったわけですから、立春が過ぎ、正月行事を終えて、いよいよその年の農作業が始まるタイミングで、古代からの「望正月」の伝統に則り、「小正月行事」を行っていました。小正月には、「新年の最初の満月の夜の火祭り」を行い、その年の「五穀豊穣」と「招福」、そして災害疫病・農作物の病虫害封じを集落の人々全員で祈願したのです。小正月行事は農耕共同体としての集落の予祝・厄除け行事として定着していったと思われます。
 これを本調査では仮に「集落農耕儀礼」と呼びます。

 江戸前期の歳時記である「山の井」には、小正月の焚き火行事について、当時の町方の習わしとして、正月飾りを一つに集めて、十五日の早朝、大道に立てて竹が爆ぜる音もにぎやかに燃やし、人々は「とんどや、おほん」「日の本や唐土(とうど、中国)」などとはやしたことが記録されています。こうした祭事の様子から、中国で除夜・元旦などに行われていた爆竹で邪気を払う風習が、日本に伝わったという説が江戸前期には有力視されていたようです。

 全国各地の小正月行事調査の事例から、中国渡来行事説を検証してみると、鳥取県鳥取市の「七草がゆと鳥追い」では「唐土(とうど)の鳥が日本の土地に渡らぬさきに 七草ナズナをそろえてホーホー」と唱える呪文があります。また、愛媛県新居浜市の「とうどおくり」は、300年以上の江戸時代中期からの歴史があるとされます。つまり、日本で小正月行事の火祭りが始まる当初は、中国渡来の考えられていたのではないか、と推測できます。

○「どんど焼き」は世界的視野での研究段階へ

 以上のデジ研「小正月行事「どんど焼き」の全国・世界調査の結果について、私たちは、どのように考えたらよいのでしょうか。私たちは、新たなパラダイムに直面しています。新年、新春を迎える火祭り行事について、国境を超えて、それぞれの民族が独自にやっていた伝統的な民俗行事が、たまたま実施様式、実施の趣旨、実施時期について、偶然に一致するということは確率論的にはありえないと言ってよいでしょう。

 さらに日本と韓国、北欧の火祭りでは、全国各地の広場に集落を単位に住民が広場に集まり、大きな焚き火を囲んで、深夜まで酒を飲み、食べ物を食べて、この1年の健康と春の訪れを祝っています。これは、一体どういうことを意味しているのでしょうか。

 日本のどんど焼きと韓国のタルジプ焼きは、隣国であり、古代から相互交流の歴史がありますから、同じ起源を共有していると推測できます。しかし、その行事連関が北欧まで広がっているとすると、日本の何気ない「伝統的な民衆文化や習慣」の裏側には、驚くべき世界規模の「普遍性」が潜んでいて、世界の人々の日常の生活や意識は、見えない糸で結ばれているのではないか。そうした新しいパラダイムの可能性がデジ研の調査から確認できました。

 さらに2015年の調査では、東北地方の「ナマハゲ・アマハゲ」と欧州の「クランプス」、インドネシアの「オゴオゴ」は、新年、新春を迎えるための「オニ」による「集落(や子どもたち)の浄化」「厄払い」が行われ、それぞれ相似の「来訪神 仮面・仮装の神々」行事であることが分かりました。なぜ、世界の人々は、春を迎えるためにオニの登場を必要とするのでしょうか? ここにも大きな謎が潜んでいます。

   どんど焼きから始まるデジ研の「小正月に関する民俗行事研究」は、以上の調査結果から、日本の枠から飛び出してしまい、東アジアから北欧までを視野に入れた、世界規模での新たなステージに移行する必要性が出てきたのです。

 こうした問題の解法としては、国際的な比較文化学があります。しかし、「どんど焼き」は古代から受け継ぐ伝統的な民衆文化であることから、比較文化学を超えて、ここには心理的な「共時性(シンクロニシティ)」が存在していることに着目する必要がありそうです。その解法に、スイスの心理学者カール・ユングを筆頭に、世界の神話や民族風習などには背景に心理学的なものがあるという考えがあります。

 ユングは、すべての人間は生まれながらの心理的な力(psychological force)を無意識に共有する「集合的無意識(Collective Unconscious)」があると主張し、ここから生み出される性向を「元型」(archetypes)と名づけています。これは、異文化間の神話に見られる類似性を説明する仮説でありますが、国境や民族を超えた「どんど焼き迎春予祝行事」にも適合するのではないでしょうか。

    あるいは文化人類学的な用語であるミーム(meme)も検討する必要があります。人類の文化を進化させる遺伝子以外の遺伝情報であり、例えば心を構成する情報の単位であり、他者の心へ同じ情報がコピーされるように、いろいろな出来事への影響力を持つ。習慣や技能、物語といった人から人へコピーされる情報として、新年、新春を迎える火まつりの記憶が人種や民族を超えて、人類の文化を形成していったという考察も成り立ちます。民俗学研究者によるさらなる探究に期待したいと思います。
(※以上の心理学的考察については、wikipediaを引用)

○「One Prayer One world 」世界は一つの祈りでつながっている

 デジ研の小正月行事全国・国際調査結果一覧の公開は、“目の前に現れた事象”の調査分析で報告書をまとめてしまいがちな従来の民俗文化研究の「落とし穴」を克服するうえで、非常に有用なデータとなるものです。
 上記の調査データが物語っていることは、少なくとも世界の各地域の小正月または迎春行事に限って考察すると、世界の人々の暮らしは、各地域に孤立したものではありません。世界各地の民衆が、お互いに連環した無意識または潜在意識の背景の中で、自然に寄り添って祖霊・精霊の見守りを信じながら、平安に生きようとする祈りと暮らしを共有しているのです。
 なぜこのような現象が発生しているのか。その説明に適合する学説としては20世紀初頭にドイツのカール・グスタフ・ユングが提唱した集合的無意識(独語:Kollektives Unbewusstes)という概念があります。個人の深い無意識の領域には、地域の集団や民族の壁を超えて、人類共通の先天的な元型 (げんけい、独語: Archetypアーキタイプ)が普遍的に存在すると考えられています。では、その元型や集合的無意識はいつ、どこで、どのようにして生まれたのかと、突き詰めていくと、すべては闇の中に包まれてしまいます。科学的に正しい回答は「データがないのでわからない」ということになりますが...

   デジ研の調査結果からは、どんど焼きに象徴される世界の新春火祭りは一つのテーマを持っています。「One Prayer One world 」つまり「世界は一つの祈りでつながっている」というテーマです。集約すれば「この一年、世の中が平和で豊かな実りをもたらし、みんなが幸せに暮らせますように」-この祈りは、世界の集落(人間の社会生活の基盤となる最小単位)を単位に、新年、新春を迎えるにあたって毎年毎年継続して行われることにより、世界の持続可能なむらづくりの原動力となっていることが明らかになってきたのではないかと、私たちは考察します。
 しかしながら、世界の現実は気候変動による災害、国家、人種、民族間の憎しみや抑圧、暴力、また貧困、飢餓や疾病に満ちています。私たちが進むべき道を見失ったとき、みんながこの祈りを捧げるならば、世界は光を取り戻せるのではないでしょうか。

 ○小正月行事、どんど焼きは経済効果の大きい地域振興イベント 長野五輪で世界の話題に

 小正月行事は、県内外から観光客を誘致するための重要な地域振興イベントとなっているところも見られます。
 秋田県では、2月が「旧暦小正月観光月間」になっており、県が全国的に観光キャンペーンを行い、観光客を誘致しています。男鹿なまはげ、湯沢犬っこ祭り、横手かまくら・ぼんでんなど、それぞれの行事に全国から20万人~30万人の観光客が来訪し、経済効果も大きいようです。秋田では小正月行事の国際化にも取り組み、横手かまくらでは、インドネシア、フィリピン、台湾など6カ国・地域の関係者がそれぞれ専用のかまくらを構えて、観光客と交流するほか、かまくらを国内外に配達する事業にも取り組んでいます。
 長野県では、1998年2月7日行われた長野冬季オリンピック大会の開会式で、長野市大岡の芦ノ尻道祖神保存会が制作した芦ノ尻道祖神(県指定無形民俗文化財)が登場し、全世界にテレビ中継されました。これにより、一躍世界で日本の道祖神文化が注目を浴びました。

 同県野沢温泉村の道祖神火祭りは国の重要無形民俗文化財、神奈川県大磯町の左義長も国の無形民俗文化財に指定され、全国から多くの観光客を集めています。中でも野沢温泉道祖神火祭りは近年、Nozawa Onsen’s Dosojin Fire Festivalとして、来日する外国人観光客の人気を集め、2015年1月15日の祭典では、見物客の半数近くが外国人観光客で占めたと報道されました(TBS情報7daysニュースキャスター)。典型的な外国人向け1泊ツアーは道祖神火祭りと地獄谷温泉猿見学のセットで大人8800円でした。

 山梨県では、甲府市や富士吉田市で商店街活性化のイベントとして、道祖神祭イベントを実施しています(平成20年~23年)。平成25年の第28回国民文化祭「富士の国やまなし国文祭」では、オープニングイベントのテーマに「道祖神とどんど焼き」が採用され、どんど焼き行事を山梨が誇る観光資源として、県外に紹介しました。

 2016年の海外調査事例によると、韓国の小正月行事では、もっと直截な形で経済効果が強調されています。京畿道・始興市とジュビリー銀行は、2016小正月ダルジプ燃き行事で、500人の始興市民と一緒に不良債権を焼却するイベントを開催しました。約3億ウォンの不良債権をダルジプに乗せて帳消しとして、生計型債務者の新しい出発を支援したということです。地域経済の浄化と招福を象徴する伝統行事ダルジプ燃きの楽しさを、さぞかし市民も実感したことでしょう。

 ○日本一古い小正月の火祭りは、福岡県久留米市の「鬼夜」

 本調査の集計結果によると、日本国内の小正月の火祭りとして起源と由緒が明らかで、最も古い伝統を持っているのは、福岡県久留米市の日本三大火祭り「鬼夜(おによ)」(国指定重要無形民俗文化財)で、1600年以上の歴史を誇ります。
 大晦日の夜から正月7日までの鬼会(オニエ)といわれる鬼払い(悪魔払い)の行事の最後に、燃え盛る巨大たいまつを担ぎ上げて練り歩き、火の粉を浴びると、1年の無病息災の御利益があると伝えられます。このたいまつは、モウソウ竹3本を芯にして、真竹で肉付けし、縄で結わえた大松明6本を燃やし、全国のどんど焼きや左義長の原型と見られます。

 「鬼夜」に関連して、九州地方では、小正月の火祭りを「鬼火」とか「鬼火焚き」「鬼の骨(オンノホネ)」などと呼んでいます。七日正月に行う所が多く、神火の力により、鬼を追い払うための行事だとされています。火を焚いて鬼を追い出すばかりでなく、やぐらに立てた青竹が「ドン」と爆ぜる音で、鬼を追い払う「鬼の目はじき」と呼ぶ。やぐらの心柱を「鬼の骨」といって、これを焼くことで「悪魔退散」を願います。鬼火焚きでは、焼杭や灰を家庭に持ち帰り、魔よけに使うことも行われています。

 鬼夜の次に古い伝統があるのが、どちらも1300年以上前の飛鳥時代から続くといわれる小正月の伝統行事である奈良県御所市の「茅原(ちはら)の大とんど」(県無形民俗文化財)と宮崎県延岡市須佐町の「歳頂火(せとき)」火祭り。
 茅原の大とんどは、修験道の開祖、役行者(えんのぎょうじゃ)が建立したとされる吉祥草寺で高さ6m、直径約3mの巨大たいまつ雌雄2体を境内に立て、毎年1月14日夜焚き上げます。大とんどは、近くの玉手、茅原両区の住民約200人が青竹およそ30本のまわりにカヤやワラなどを編み込んで作ります。

 「歳頂火(せとき)」火祭りは、霊亀2(716)年、僧・正覚が和歌山県の玉置(たまき)山から熊野権現の分霊をもって諸国を巡礼する中で、この地に建立した熊野神社で行われています。無病息災や五穀豊穣を祈願する旧暦小正月の伝統火祭り行事で、旧暦の一年の最後の日(1月14日)の夜、ヤマと呼ばれる高さ4mほどの井桁に組まれた大きな生木に、神殿で起した神火がつけられます。この神火で一切の厄を焼き払い、健康と五穀豊穣を願いながら、新しい年小正月(1月15日)を迎えます。古代の満月を祝う「望正月」の慣習を受け継ぐ行事と考えられています。現在では、旧暦の1月14日に最も近い土曜日に行なわれています。

 3番目に古い伝統があるのが秋田県美郷町六郷地区の「六郷のカマクラ行事」で、約700年の歴史があり、重要無形民俗文化財に指定されています。延暦21年(802年)に征夷大将軍坂上田村麻呂が創建したという、秋田諏訪宮の小正月の神事として行われています。
 その中心となるのが「天筆まつり」で、宮廷で吉書を焼く「左義長」にならって、子どもたちが吉書の書き初めである「天筆」を書いて旧暦小正月の15日に注連飾り、神符や門松とともに天筆を焼きます。
 また、国の無形民俗文化財に指定されている滋賀県近江八幡市の「左義長」は、400年の伝統があります。左義長は新藁で美しく編んだ約3メートルの三角錐のたいまつの上に数メートルの青竹を立て、細長い赤紙や薬玉、巾着、扇などで飾ります。
 隣県の福井県勝山市の左義長ではご神体の松飾りに、魔除けとして扇や紅白の房がついた三角形のヒウチ(火打)袋をつるして飾ります。
 この「ヒウチ」と同じ形状の三角形の袋は、富士山北麓の山梨県の富士吉田市から都留市(郡内地域という)にかけて「ヒイチ」という魔除けのお守りとして使われていることが調査で分かりました。小正月行事のどんど焼きでお清めを行い、その後1年間、民家の玄関に吊るして飾られています。調査結果からは福井県勝山の「ヒウチ」、山梨県富士吉田、都留の「ヒイチ」はほぼ同じ風習ですが、なぜ国内でも2つの地域だけが同じ風習を共有しているのか、その理由は不明です。

 ○日本一高いどんど焼きやぐらは、宮崎県西臼杵郡五ヶ瀬町大字鞍岡

 宮崎県西臼杵郡五ヶ瀬町大字鞍岡のどんど焼きでは、毎年やぐらの高さでギネス記録に挑戦しており、2010年1月10日の祭礼では37.2m(町役場のK様より情報提供)を達成しました。これまでのデジ研調査では、新潟県阿賀町石間のどんど焼きやぐらが、高さ33mほどで「日本一の高さ」と誇っていました。これ以外にも正確なデータが発表されていませんが、山梨県富士吉田市、富士河口湖町、山中湖町の道祖神祭り・御神木が30m以上の高さを競っています。
 鞍岡のどんど焼きに次いで高いやぐらは熊本県下益城郡美里町の「みどりかわ湖どんど祭り」のやぐら。間伐材や竹などで約20m四方のやぐら三基を組んで、盛大に燃やします。地元では「日本最大級のどんど焼きやぐら」といわれています。

 ○日本一大きいどんど焼きやぐらは徳島県美馬市美馬町

 徳島県美馬市美馬町の吉野川河川敷で行われている「どんど焼き」は2014年1月13日行われ、約2万本の竹を使い、約20m四方、高さ約13mに積み上げ、正月のしめ飾りなども載せたやぐらを作り、「日本一のどんど焼き」と宣言しました。この竹は、国土交通省徳島河川国道事務所から河畔に生えている竹の提供を受けているということです。

 ○世界最大規模の新春火祭り(どんど焼き)は、奈良の若草山焼き

 奈良県奈良市、春日大社の若草山焼きは「日本一の大とんど」と地元で呼ばれています。「若草山焼き」行事の日程は近年、観光客が参加しやすいように1月第4土曜日に変更され、春日大社の大とんどの日程も、山焼きに合わせて変更されています。しかし、元々は、1月15日の小正月の行事として行われていました。奈良市では、成人式を終えた奈良の青年は、晴れ着姿で町に出て、夕方には花火と山焼きで祝ってもらうという習慣がありました。小正月に、元服式に由来する成人式を行うことにも意味があったという。
 若草山焼きは、「御神火奉載祭」で飛火野で行われた大とんどの火を採火、時代行列で若草山麓の野上神社に運ばれます。夕刻、同神社で山焼き行事の無事を祈る祭礼が営まれ、打ち上げ花火に続いて若草山各所に火が放たれます。これを送り火とみて、「若草山焼きは日本一のとんど」と言われることもあるということです。
 本会の新春火祭りに関する世界調査では、欧州最大の火祭りとされる英国の「アップ・ヘリ―・アー」があり、ヴァイキングの古代船1隻を燃やしています。しかし、若草山焼きでは約33ヘクタールの山肌が炎の海となり、古都の夜空を焦がします。見学に訪れる観光客は約19万人(2024年)とこれも桁外れの規模であり、世界最大規模の新春火祭りと言ってよいと思われます。

 ○日本一のとんど祭屋台は大阪高津宮(2018年に中止)

 大阪市中央区、浪速・高津宮(こうづぐう、高津神社)で行われる「高津宮とんど祭とたぶん(自称)日本一の屋台達」では、大阪の有名店飲食店が1日限りの屋台を出すのが名物で、「自称日本一」といっています。地元の飲食店経営者らでつくる実行委員会主催。ミシュランガイドに掲載された人気店の食べ歩きが気軽にできるのが評判だったが、2018年1月8日開催をもって終了したということです。

 ○日本一大きいどんど焼き小屋は新潟県十日町市のバイトウ(高齢化で縮小へ)

 どんど焼きで小屋ややぐらを作るところでは、集落の路傍や田んぼ、河川敷などで地域の大人と子どもが一緒に作っています。小学校の年中行事としてどんど焼きを行う所も近年目立っています。大きな小屋を作るところでは、中に大人や子どもが入って、酒食をともにしたり、遊んだりする「おこもり(年籠り)行事」が行われる所もあります。
 おこもり小屋で日本で最大のものは、新潟県十日町市大白倉集落のバイトウ行事で、直径8m、高さ10~12mの小屋を作ります。どんど焼きの夜には、集落の住民が総出で、バイトウ小屋の中で小正月の宴会を行った後、火を付けて燃やします。
 2020年は2月23日、小正月伝統の「バイトウ」行事が行われました。過疎化や住民の高齢化で大がかりなバイトウづくりは今年が最後になったということで、次の年からは身の丈にあったものを作っていくということです。 

◎どんど焼きの意義を議会の場で質疑 愛媛県八幡浜市

 2005年12月、愛媛県八幡浜市定例市議会の一般質問で「正月飾りの処理のあり方、どんど焼きの意義」について、市当局と女性議員が討議する出来事がありました。これは、日本人の「小正月行事どんど焼きに対する生活感情がどのようなものであるかを公的な場で討議した記録として重要ですので、ここに掲載いたします。(なお、同市では、2015年も古い神札を炊き上げる鎮火祭、正月飾り縁起物を焚くどんど焼きを分けて行っているようです。)

 どんど焼き質疑に至る経過は、地方紙に、それまで市が行っていた「どんど焼き」の開催場所が確保できなくなったとの報道があり、12月の市広報に、「平成18年の新年のどんど焼きについては、一部のしめ飾りのみ神事をとり行い、(正月飾りなどの)ほとんどを八幡浜南環境センターにおいて(ゴミとして)焼却処分することになった、平成19年以降についてはどんど焼きを行わない」と市民に広報したことでした。

 この問題について、女性議員が取り上げ、次のように質疑しました。
 「しめ飾りは、新年を迎えるに当たって、1年間の平穏無事と感謝を込めてかけかえる年中行事の一つであり、伝統文化でもあります。だれしもごみと一緒に焼却することには大きな抵抗があり、気持ちの上で納得がいきません。
 質問の第1点は、広報に書かれている一部のしめ飾りのみ神事を行い、ほとんどを南環境センターで焼却処分するとはどのようなことなのか、御説明をお願いいたします。
 第2点は、どんど焼きを残す方法はないのでしょうか。
 第3点は、平成19年度以降についてはどんど焼きは行わないというが、しめ飾りはどのような方法で処分するということでしょうか。

 質問に対する市当局の回答は概略以下のとおりでした。
・取りやめに至った理由は、内港埋立計画により(会場の)出島が使用できなくなったこと。
・その対応として昨年利用をした地区では、黒煙により公害であると住民から苦情が大変多かったこと。
・3点目は、一般には野焼きを禁止をしていること。ただし、風俗慣習上または宗教上の行事についは規制の対象外ではあるけども、地域の生活環境に影響するばい煙、焼却すすの飛散などには十分配慮をする必要がある。
・4点目は、旧八幡浜市の市街地のみ(市)が行っており、周辺部では神社または地区でどんど焼きを行っている。
・結論として、市が主体的に鎮火祭、どんど焼きを行うことを断念した。
・今後は、市が主体的に実施するものではなく、各地域それから各神社、各個人において処分をしていただきたい。

◆「どんど焼き」に関する愛媛県八幡浜市定例市議会会議録
http://www.city.yawatahama.ehime.jp/docs/2014090501154/

 ○学習指導要領・郷土学習としての「小正月行事・どんど焼き」の教材化

 (この項は、教育関係者からの問い合わせにより、追加いたしました)
 SDGsは2015年9月の国連サミットで採択された「持続可能な開発のための2030アジェンダ」にて記載された2016年から2030年までの国際目標であり、学校の教育現場でも取り組みが始まっています。指導要領は2020年度からの改訂に伴い、各教科において様々な場面でSDGsについて触れられています。  しかし、教育の現場では、SDGsについて子どもたちに身近な教材を用いて詳しく教えることができる教材がなく、どのように実地に即して教えたらよいか分からないという課題や悩みを抱えていると言われます。
 ここではまず現行の学習指導要領 第3章道徳 第2内容4(主として集団や社会との関わりに関すること)の中に示された項目に即してSDGsの取り入れ方を考察してみました。(指導要領は文科省サイトによる)
第1学年及び第2学年(4)郷土の文化や生活に親しみ、愛着をもつ。
第3学年及び第4学年(5)郷土の文化と伝統を大切にし、郷土を愛する心をもつ。
第5学年及び第6学年(7)郷土や我が国の文化と伝統を大切にし、先人の努力を知り、郷土や 国を愛する心をもつ。

 道徳教育の中になぜ「郷土学習」が含まれたのかは、ここではおくこととしまして、「郷土の文化と伝統を大切にし、郷土を愛する心をもつ」という学習指導要領の目指すものを包括的に含む地域教材を考えた時、「小正月行事(どんど焼き)」は最もふさわしい教材であると考えられます。

 その理由を説明しますと、以下の5つの要点が挙げられます。

 まず(1)地域の子どもたちに最も身近な伝統文化行事であること。実際に児童が参加し、自らが主体として観察・調査・研究し、そのうえ豊かな情緒体験ができることが挙げられます。何よりも小正月行事自体が、子どもたちに行事の主人公として役割を付与していることが重要なポイントです。

 (2)次に小正月行事は、地域集落を単位として、何百年も受け継がれた伝統の上に成立しており、その地域集落の独自の文化を形成しています。その伝統行事を、古老、大人と子どもたちが世代を超えた共同作業(ものづくり、芸能伝承)により、自然な形で継承されるシステムが出来上がっています。

   (3)には小正月行事が、地域集落を単位として、その1年の集落の豊かな収穫、防災、そして、人々の健康、幸福を皆で心を1つにして祈り、そのために踊り、そのために叫び、そのために神聖な火を焚き、集落の存続にかけて、皆で協働することを誓い合う場となっていることが挙げられます。それは「蒙昧な大衆の旧幣」では決してなく、むしろ21世紀の今求められているコミュニティのサステナビリティ(子どもたちを中心とした持続可能な地域形成)の理想であるということができます。

 (4)しかも、デジ研調査で明からかになったように、地域の伝統文化である小正月火祭りには、海外にも比較研究できる火祭りがあることから、地域の「独自性」の中に「普遍性」があるという「国際理解教育」も可能になります。

   (5)以上の観点からは、「小正月行事(どんど焼き)」は現在の教育現場で課題となっている「ESD(Education for Sustainable Development=持続可能な開発のための教育)」を最も具現化した地域教材ととらえることができます。
 文科省では、ESDとは、これらの現代社会の課題を自らの問題として捉え、身近なところから取り組む(think globally, act locally=国際的な観点から考えて、地域で活動する)ことにより、それらの課題の解決につながる新たな価値観や行動を生み出すことと説明しています。そして、ESDでは持続可能な社会を創造していくことを目指す学習や活動であることが求められています。
 つまり、ESDは持続可能な社会づくりの担い手を育む実践教育でもあるとされているわけです。これらの要件を満たす学習活動として、子どもたちが地域コミュニティの一員として、主体的に小正月の一連の行事に参加し、体験し、個々の行事の意味を考え考察しながら、学習記録として残すことが有効です。持続可能な開発のための教育にはさまざまなプログラムが考えられますが、小正月行事学習は次の3点のESD実践要件を満たします。
◎小正月行事学習は「関心の喚起 → 理解の深化 → 参加する態度や問題解決能力の育成」を通じて、「具体的な行動」を促すという一連の流れの中に位置付けられる
◎小正月行事学習は、単に知識の伝達にとどまらず、体験、体感を重視して、探求や実践を重視する参加型アプローチをとることができる
◎小正月行事学習は、活動の場で学習者の自発的な行動を上手に引き出すことができる

【学習指導の留意点】
 小正月行事には、「おかたぶち」、「嫁つつき」、「オカリヤ」など、性にからむ表現が伴うことが多くあります。これらは、「子宝授け」、「安産」、「子孫繁栄」への素朴な民衆的表現が込められています。そのさらに深奥には、民衆の「持続可能な社会づくり」への根本要件である生殖に対する深い理解が込められ、道祖神祭の子どもたちは「神の使い」として、新婚夫婦のもとを子授けのために訪れています。これは神聖な祈りが込められたものと考えられます。
 学習指導にあたって、「性にからむ小正月行事」を民衆の野卑でふざけた因習として否定することなく、「生命の再生」という観点にたって持続可能な社会づくりとは何かを考えながら、より高次の理解に導くことが、郷土教材を昇華していく方法であります。

 「郷土を大切にし、郷土を愛すること」という学習指導要領の抽象的な概念を超えて、ここではESDのための学習活動としても、小正月行事の「具体的な所作」の一つ一つの中に、生きた教えが込められています。

 実際の学習方法について、小正月行事は「観察・見学学習」、「調査学習」、「体験学習」の3つのカテゴリーが同時に達成可能です。
 地域学習活動としての留意点は、基本的には次の2点が大切だと考えます。
 (1)毎年自分たちが先輩たちから継承し、実践している身近な地域の伝統文化行事を科学的に調査分析し、記録に残し、行事に込められた意味、願い、祈りを知る
 (2)自分たちの地域行事を国内、世界の類似行事と比較する

   ー この二つの活動を行います。地域資料デジタル化研究会の「小正月行事どんど焼きの国内、世界調査」は、以上の教育活動のために基礎データを無償提供しています。<br>  高学年向けには、デジ研全国・世界調査結果一覧表により、子どもたちが暮らす地域の小正月行事の独自性と、全国、そして世界の類似行事を比較することで、「我が国の文化と伝統」の姿について、身近な国際比較文化論として論考することが可能になります。
 「世界の人々は平和と豊穣を求める一つの祈りでつながっていること」。子どもたちがその理解に到達すれば、持続可能な開発のために何が大切であるかを学ぶばかりでなく、人類のための平和教育にとって最高の地域教材と言えるでしょう。
 人類が民族や国境の壁を超えて、一つの祈りでつながっているのに、なぜ人々は争い、殺しあうのか。子どもたちは、自分たちの身近な伝統行事をみつめながら、その根源的な答えに近づいていくことができます。

 デジ研調査では、学校行事として「どんど焼き」を、地域の無形民俗文化を守るための教育活動として実施している事例が多く見られます。それらの事例も調査データに含まれていますので、ご参照ください。  (※本調査データの教育利用は自由で、許諾不要です。著作権教育の観点から、レポート末尾などに出典を明らかにしての活用をお願いします。)

 

小正月行事の郷土教育における教材化プランはこちらからダウンロードできます。)PDF文書

 

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(調査・データ編集:NPO地域資料デジタル化研究会デジタルアーカイブ班 担当・井尻俊之)

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