1 印刷文化の進展

 朝起ると新聞を見る。學校に行けば教科書を使つて勉強する。各種の仕事は設計圖によつてなされ又傳票によつて帳簿に※[#「ごんべん+巳」、読みは「き」]入される。餘暇があれば雜誌を見、グラフを開き、小説を讀む。人を訪問するには、先づ名刺を用意しなければならない。又商工業家の事業宣傳にはカタログ、リーフレツト、ポスター等が是非必要である。學者の研究も進めば進む程、文字と圖解の力が益々必要となつて來る。現代人の生活から印刷物を取り除いたら全く暗黒の世界に化して了ふことは、今更喋々するまでもない。それほど印刷と文化、人生と印刷との關係は密接であり、重要なものである。[# 原本では改行されているため「。」がないので入れた]かつてスペンサーが印刷物は衣食住についで、人生に必要なものであると云つたのは蓋し眞理である。




第一圖

 埃及に於ては象形文字を、バビロニヤに於ては楔形文字を石、貝殼、[# 原本では改行されているため「、」がないので入れた]象牙等に彫刻し、或は粘土に文字や、繪畫を彫り、これを乾かし後燒き固めて後世に遺した位のもので、原始時代に於いては、それほど必要缺くべからざる印刷も見ることは出來なかつた。ローマ時代に紙が發明され、多數の寫字生によつて同一原稿が同時に筆寫され、それを裝幀して書店に出して販賣し、或は一般の人に頒布するといふ組織が生れたが、これは恰も今日に於ける新聞雜誌の發行に似てゐる。我國に於ては、孝謙天皇の御代に祈願のため百萬塔を作り、其の中に根本、相輪、自心印、六度の四陀羅尼經の内一葉宛を納めて、これを全國十大寺に頒布した。第一圖の右はその木塔であり、左は其の經文の一部を示したものである。今から千百余年前の印刷物としては、仲々立派なもので、印刷文化史上世界的寳物として珍重され國寳に指定されてゐる。又英國の博物館では極めて叮重に保存されてゐる。
 前※[#「ごんべん+巳」、読みは「き」]寫字生といひ、木版による陀羅尼經の印刷といひ、澤山の人手と時間とを要すので、並大抵の事でなかつた事は想像される。この難關を切り開かんものと、人類の努力はどんなに拂はれたか知れないが、やうやく西紀一四四五年頃に至り、獨逸のグーテンベルグ氏が現代の活版術を發明され、それ以來社會の文化は急激に進歩し、暗黒社會は一大光明に輝き、かのルネサンス文化の華を見るに至つたのである。一九二四年に米國の大學教授會は世界の偉人十八名を發表し、是等の人々の功績を永遠に※[#「ごんべん+巳」、読みは「き」]念することになつたが、グーテンベルグ氏は其の中のナンバーワンに擧げられてゐるのも、蓋し至當のことであらう。


第二圖

 我國の印刷術は、前述の如く世界に誇るべき古い歴史は持つてゐるが、其後餘り發達せず、幕末に至り本木昌造翁によつて漸く洋式活版術が傳へられ、漸次進展して今日の隆盛を見るに至つたのである。活版と同樣に活字と組み込んで、印刷される凸版に木版がある。木版は云ふまでもなく活版より一歩先きに發達し、文章の凸版を作りブロツク本を印刷してゐたことは、獨り日本許りでなく、歐洲に於ても變りはない。第二圖は獨乙のある尼寺に保存せられてゐたもので、聖クリストフが幼救世主を背負つて、川を徒渉する所を示したものである。下方にラテン語で「この繪を日常拜んでゐる人は不幸な死に目に遭はぬだらう」といつた意味が刻まれ、その最後の所に千四百二十三年と年代が明※[#「ごんべん+巳」、読みは「き」]してあるので、西洋木版の歴史を物語るものとして有名である。其後ルネサンス時代にはアルブレヒトヂューラー氏、ハンスホルバイン氏等幾多の名匠が現はれ、木版の黄金時代を現出した。十六、[# 原本では改行されているため「、」がないので入れた]七世紀はやゝ衰運に傾いたが、十八世紀に至りトーマスベビック氏が銅版彫刻の技法を應用した、精巧緻密なる木口木版を發明し、新局面の開拓と木版畫の再興を計つた。
 我國に於ては徳川時代に至り、浮世繪の發達に伴つて民衆美術として板目木版が極度に進展し、遂に錦繪となり、世界的名聲をかち得るに至つた[# 原本では「かち得る至につた」となっている]。これこそ日本に於ける創作版畫の母体であるといはれてゐる。明治時代には一時衰頽したが、今亦創作版畫の世界的興隆と共に、獨り木版のみならずエッチング、石版、寫眞應用の各種の版畫熱はいよ/\向上し、各種の展覽會にも出品され、又日常生活にも利用され、[# 原本では改行されているため「、」がないので入れた]美的、實用的兩方面から、一般に創作鑑賞されるに至つたのはよろこばしい現象である。

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