けい子と過ごした30年―編集後記にかえて― 伊東正展 

 バラが咲きました。  真紅のバラの花です。あなたが作った我が家入り口のアーチのバラが今年も見事に咲きました。そして今年もあなたの命日がきました。

在りし日の伊東けい子さん 私達が結婚したのは、昭和39年5月の事でした。親父が定年を迎えた時で、自分の山から木を切り出して、友人の棟梁と泊り込みで新居を作ってくれました。親父の夢だったのかも知れません。そこで私達の生活が始まりました。私は富士通研究所で材料の開発を、けい子は「伊東服装研究所」と称して、近所の娘達に洋裁を教え、若い私達は未来が無限に広がっているように思えました。この頃、洋間の壁には、独身時代の作品の、「裏庭に咲く花」が飾ってありました。長野県展に思いもかけず初入選した思い出の作品と思われ、結婚した時この作品だけを持ってきました。

 やがて、3人の子供が出来、子育てに追われる日々となりました。私は私で会社の仕事が面白くもなり、忙しくもなって、家庭のことは妻に任せっ切りとなりました。しかし、お寺育ちの妻は、サラリーマンの家は誰も人が来ないのねと言って寂しがったので、段々会社の同僚を連れてきては酒を酌み交わしながら、仕事の事、人生について、談笑する事も度々となりました。通常の奥さんだと迷惑この上ないことを、結構一緒になって楽しんでいたように思います。
 妻は、長女には絵を、二人の男の子にはピアノを一生懸命習わせていました。そのせいか、3人共、文化芸術系の道を歩んでいます。もっとも、私も、友人には手へんのつかない技術者だと言われていますが――。

 本人のメモによれば、染色を再開したのは、39歳(1978年、昭和53年)の時です。勿論独身時代から師事していた広川青五先生を頼ってのことです。丁度一番下の子が小学校入学の年です。子育ての間我慢していた染色を満を満たして始めたのでしょう。この時から、1988年に日本現代工芸美術展の初入選するまでが、彼女の創作活動にとっても、私生活にとっても、最も充実し、幸せな時代だったと思います。この間の作品を見ると、花、果物、山、雲、樹木等様々な題材をモチーフにして、自由自在に彼女の世界を展開しています。「長靴をはいて」シリーズなど、彼女の心の余裕を感じさせます。芸術的にどうかは、私にはわかりませんが、リビングにこの時代の作品を掛けておくと、暖かい雰囲気に包まれ、幸せを感じるような気がします。本人も「染めも、趣味で自分の身につけるものを作っているうちは楽しかった――。」とメモを残しています。その頃、広川先生ご指導の「青の会」が活躍の舞台でした。

 1988年本人49歳の時、「山からの贈物No.2」で、日本現代工芸美術展に初入選します。これは、本人も「考えても見なかった事」とびっくりし、大いに喜びました。私もそんなにおおそれた展覧会に入選するほどの入れ込みようと能力があるなどとは、少しもしらなかったので、大変びっくりした記憶があります。
 この画集の始めの、本人のポートレイトは、上野で本人の作品をバックにして撮ったものです。チョッピリ得意顔で、本人も気に入っていた写真の1枚です。

 1989年も「秋の光の中で」で入選しますが、1990年は落選します。この年、年号は「平成」となります。本人51歳となり、「更年期の症状がドッと出た」事とあいまって、「4月、5月とノイローゼのようになってしまった。」とメモを残しています。その後益々体調は悪化し、落ち込んで、マイナス思考になって行く様子が、克明にメモされています。しかし、それでも懸命に作品を作り続け、そうした、人生をシリアスに見つめる姿勢が作品に反映し、審査員の目にとまったためか、1991年、1992年と入選を続け、'91年には、日本現代工芸美術協会会友になります。しかし、それからは、体調の悪化はいかんともしがたく、1995年帰らぬ人となってしまいました。

 死後、彼女の数多くのスケッチ、メモを整理していて、私は大変なショックをうけました。私が彼女の異常に気が付いたのは、,93年頃で、それから病院通いがはじまりました。しかし、残されたメモを見ると、,90年から強烈な更年期症状に苦しんでいたのです。けい子は、いつも陽気で明るく、笑顔を絶やさず、やさしく、完璧に家事をこなしていました。体調不良を時々は訴えたとは思いますが、メモにあるように、深刻に、そして、マイナス思考の階段を駆け下りていっていたとは、うかつにも当時気が付きませんでした。

 そう言えば、私はけい子が染色している所を、1回も見た事がありません。私が家に帰った時は、染色のセの字も跡形もないのです。「夕鶴」のおつうのようだと、今感じています。そして、おつうのように月へ行ってしまいました。これは、美大に進み、画家になりたかったのを、両親に説得された経緯から、染色する事で、私に迷惑かからないようにと言う配慮からだったのでしょう。だから、作品を整理して見て、こんなに何時作ったのだろうかと、ビックリするばかりでした。

 '92年に、彼女は突然「スペインに行く」といって、私の反対を押し切って出かけていきます。当時私は何で突然そんな行動をするのか、全く理解できませんでした。
 彼女のメモによると、「頭の中は仕事中も常に悩み事が頭を離れない。こんな最低の精神状態で美しい良い作品は作れっこない。落ちるだろうがやるしかない。これで落ちたら寝込む。そうなりたくない。死ぬまでにしたいこと、それは海外旅行。ヨーロッパだ。最大なわがままを言ってみる――。」 勿論このときも、私の前には、陽気で明るい、けい子しかおりませんでした。
 この旅行は、けい子の体調を回復させ、精神状態も回復しています。そして、落ちると思っていた展覧会も入選していました。そして高校時代の恩師である宮先生の本の中にも一文を執筆し、メモには「最低の時、世の中が認めてくれることニ点あり。生きるってゆかい。」と記しています。

 '91年(平成6年)春私達は長野市にいました。アパートのそばには、千曲川の支流が流れていました。けい子はしきりに体調不良を訴え、クスリのためにボーッとして、作品を作る事が出来ないと悲しがりました。体が良くなればいつでも出来るのだから、あせらずにデッサンでもしていたらと言うと、気を取り直し、やっとの思いで1枚を仕上げたようです。
 彼女の多くのデッサンの中から、この時代のものだけを、この画集に納めました。デッサンは春のイブキを伝えるものが大部分です。再生したいと言う彼女の思いが伝わり、言葉を失います。

 稲城の家の玄関には、死ぬまでの数年間「どこまでも続く道」が掛けてありました。今この作品の前に立つとき、彼女が何を思いこの作品を作ったのだろうか、そして「どこまでも続く道」の向うに、何を見たのだろうか、何を見ようとしたのだろうか、と思う。
 満月の夜は、ベランダに出て月を見ます。そこには、チャメッケたっぷりの笑顔の君がいます。そちらの世界でも君は染色をしているのでしょうね。きっと楽しい作品を一杯作っているのでしょう。
 今夜はモーツアルトのレクイエムで静かに君との思い出に浸ることにしよう。天才肌の君には、カラヤンの振るベルリンフィルのものが似合っているんだよね。

 遺作展の後、もう一度個展を開きたいと思っていました。ある時、娘がふと「お母さんの作品は、高原が似合うのよ」と言いました。ああそうだと思い、そのチャンスを捜していたのですが、中々チャンスが訪れませんでした。  昨年の秋頃、当時山梨大学の評議員をやっていた中澤誠氏に、誰か力になっていただける人いませんかねとお話した事がきっかけとなり、中澤さんから同じ評議員でもあった小林是綱様にお話が行き、作品を見ていただけることになりました。作品を見ていただいた時、作者の魂を感じていただいたのか、是非やろうと言っていただき、それからは並外れた行動力によって、個展の開催と本作品集が実現する事になりました。
 勿論、これだけの美しい作品を制作出来たのは、独身時代から最後までご指導いただいた、広川青五氏のお陰であり、けい子のメモにも、技術的なご指導だけでなく、より良く生きていくための色々のアドバイスが書かれています。生涯尊敬していた恩師であります。
 「青の会」でお世話になりました、日本現代工芸美術協会正会員の角田幸子氏には染色の技法について、記述いただきました。
 写真家宮坂健二氏(東映)には、夜を徹して、作品の写真を写していただきました。
 伸興印刷の長田社長には、短い間に個展のポスター、パンフレットを含め、本作品集を立派に完成させていただきました。
 また、萌木の村の舟木社長を始めとする八ヶ岳高原活性化研究会の皆様には、個展のご後援をいただき、広報活動にお力をいただきました。
 個展会場のアクアリゾートの関係者および山梨県の関係者には、大変ご無理なお願いを聞き入れていただき、立派に個展を開催できました。
 けい子の親友でありました、春陽会会員の中澤優子氏には、実行委員会副委員長として、個展、作品集の飾り付け、デザイン等全ての面に渡って優れたアドバイスを頂きました。
 この他、伊東けい子個展・作品集実行委員の全てのメンバーには、それぞれの役割を果たしていただきました。
 個展の開催とこの作品集の出版ができましたのは、以上のかたがたの絶大なご協力があったからです。個展と作品集は、生前けい子が一番望んでいた事だと思います。ここに、天国にいるけい子に代わって、心から感謝申し上げたいと思います。
 この他にも色々な方のご協力があってこそ出来た事で、合わせて感謝したいと思います。

平成13年6月吉日